2023/2/25-26 姫路観光と姫路城マラソン

 2回目のフルマラソン。前回の松阪マラソンは後半、足がつってダメダメだったので、2週間に1回、30㎞走を取り入れて強化。しかし2週間前に突然の原因不明のギックリ腰再発。

 なんとか前週に5㎞走れるようになった段階で参加。前日にしかゼッケンやビブス(靴に装着する名刺の半分の大きさのICチップ)をもらえないこともあり、前泊し姫路観光


姫路駅前。ここまで3時間。近鉄で鶴橋まで行き、JR環状線で大阪駅まで大阪からは山陽本線の新快速で1時間。

姫路城の前にあるイーグレひめじで本人確認のちゼッケン、ビブス受取

出身地別のステッカー

お菓子入りの応援メッセージのお菓子の提供企業

糸引小学校5年生からのメッセージ


三の丸広場に設けられたフィニッシュ

入場ゲート前から

マラソン参加者は特典で招待券がもらえる。1年有効。
 

見学ルート。帰りは図で「ぬノ門」から「るノ門」通っているが、「ぬノ門」から「ろノ門」の前を通って、「いノ門」から「菱ノ門」を通った。

菱ノ門。

姫路城の数ある門(最盛期には全城域で大小60以上)の中で最大かつ、意匠的にも圧倒的な豪華さを誇る。

3種類の窓があり、中央は黒漆塗りに金の飾り金具で装飾を施した三連の格子窓、その左右にはこれも黒漆に飾り金具の釣鐘型の窓。これは「華燈窓(かとうまど)」といい、金閣寺や銀閣寺など格式の高い禅宗系のお寺でよく見られる形態。姫路城では乾小天守や西小天守の窓にも採用されている。一番右は白漆喰塗りの出格子窓。

1階、2階の壁の表面は白漆喰塗りで、柱や長押の形が浮き出ている。これは真壁(しんかべ)造りと言って、これも大壁造り(柱や長押をすべて漆喰で覆ってしまい、外観からは見えなくする)より格調の高い工法。姫路城では大天守最上階の窓の周りにも同じ工法が見られる。


「いノ門」を出たところ。「いノ門」は高麗門」という形式で両開きの門の扉を開いたときに、扉に雨がかからないように保護のために内側の左右にそれぞれ小さな屋根をつけた門をいう。朝鮮半島から伝わったのでなく秀吉の慶長・文禄の役(唐入り)の前後に考え出された建築スタイルだったため、「ハイカラ」「最先端」という意味で「高麗」とネーミングした。
前に見えるのが「ろノ門」。 門の右の石垣の石が新しいが、昭和初期に起こった大事件の跡。昭和12年、衣笠貞之助監督作品、松竹映画「大坂夏の陣」のロケが姫路城内で行われていた。この作品は千姫に山田五十鈴、秀頼が坂東好太郎、淀殿に東山千栄子、坂崎出羽守が林長二郎(のちの長谷川一夫)という当代の人気映画スターを起用した一大歴史スぺクタクル映画。映画のクライマックスで徳川方の兵士が秀頼以下豊臣方が籠る大坂城の石垣を登っているときに砲弾が炸裂する、という場面を、姫路城の本物の石垣の前で撮影することとした。当初の計画では、石垣に少量の爆薬を仕掛け、石垣の隙間に詰めた小石が飛び散るぐらいの爆発を起こすことになっていたものが、撮影スタッフが火薬の量を間違えて、大人が数人がかりでも動かせないぐらいの大きな石が空中を吹っ飛ぶぐらいの大爆発を起こした。そして撮影を見物していた女性1名が石の直撃を受けて亡くなり、他に重軽傷者5名、という大惨事になった。当時、この場所がちょうど石垣の積み替え予定になっていたために、姫路城の工事主任が安易に松竹側の要請に応えたことが後日明らかになった。この事件で映画の助監督2名と煙火製造業者1名が業務上過失致死で執行猶予付きの有罪判決を受けた。
 


下の図の出口あたりから西の丸

「ろノ門」を出たところ。「いノ門」と同じく高麗門

「はノ門」を出たところ。はの門は門の上に建物が乗っかっている「櫓門」と呼ばれるスタイル。

本丸へと向かう最後の関門、「にノ門」。 この門は「ぬノ門」と並び、城内屈指の防御力、攻撃力を誇る。
門は門柱、冠木、大戸からくぐり戸まで一面鉄板で覆われている。頭上は合計3棟の櫓が複雑に折れ重なり合った構造となり、しかも門の内部は低い天井の穴蔵を右に曲がりながら階段を登る、という構造になっている。
攻め手側の一気の侵攻を食い止めるとともに、階上の櫓の床板をはずせばそのまま門内を通過しようとする敵兵の頭上に槍を突き立てることができる設計。 にノ門手前の狭い通路での頭上からの攻撃に加えて、まさに寄せ手の軍勢を最終的にここで殲滅することを意図。

「にノ門」を出たところ

「ほノ門」。城郭用語では埋門(うずみもん)と呼ばれる門。
埋門には、石垣上の土塀の下の一部を切り欠いて門とする形と、石垣そのものに穴を開けて通路としてそこを門とする形の二種類があり、姫路城には双方あるが、ほノ門は前者の典型。

「水ノ二門」。手前は「水の一門」。「水ノ一門」は城門としてはあまり使われることのない、両側の鏡柱に冠木を渡して切妻屋根をかけただけの「棟門」という簡単な門で、姫路城内ではこの水ノ一門と次の水ノ二門、そしてちノ門の3つ。この水ノ一門は、ちノ門とともにこれも城門としては異例の片開きで、門をくぐると緩やかな下り坂になっている。これは天守閣に向かうのに通常上り坂になっているはずが、下り坂にすることで敵に躊躇させるのを目的としている。
「水ノ二門」は両開きで奥の「水ノ三門」まで下り坂になっている。

「水ノ三門」。さらに小さな門で扉の横幅は1m50cmほど。「ほノ門」と同じく土塀の下の石垣を一部切り抜いたような形の埋門。門内がすぐ90度左折する形で上り階段になっている。
敵がここに到達する前に、扉を閉め内側の空間に近くの石垣でも取り崩して石を詰めてしまえば、敵が突破するまでの間、かなりの時間稼ぎができる。

大天守二階。武器庫になっていて出っ張りに槍を置くようになっている。

1階は屋根を支えるために肘木が添えられた梁が並ぶ、高い天井が特徴。

城内に侵入した敵に抵抗するために武士が潜んだ小部屋「武者隠し」

姫路城を貫通する2本の大柱。奥が西大柱、手前が東大柱

西大柱

東大柱

「石打棚」。高い位置の窓から敵を攻撃するための土台

西大柱と東大柱の間隔が狭い。南北に千鳥破風があり、屋根裏部屋風。明かり採りの窓もある。

最上階尾の6階。姫路城の守護神、刑部明神が祀られた刑部神社

西の丸方向。左端の大きい門が「菱の門」

中右の小山は八丈岩山(172m)

手前の広いところが「備前丸」。池田輝政が姫路城を築城したときに居館を建て、藩主と家族が住んでいた。3代目の光政が鳥取に転封となり姫路を離れるまで続いた。明治15年(1882年)の火災でことごとく焼失

鯱(しゃちほこ)。鯱とは、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物。大棟の両端に取り付け、鬼瓦と同様に守り神とされた。破風に施される懸魚同様に火事除けとして水にゆかりのあるものになっている。
また、鯱瓦は仁王像や狛犬などのように「阿吽(あうん)」一対となっており、口を開けているのが「阿」で雄、閉じているのが「吽」で雌とされる。しかし、姫路城の鯱は11体とも全て口を閉ざしている。 これは復元の元になった1687(貞亭4)年のものが片方しかなかったため。

煉瓦建の建物は旧陸軍第十師団の兵器・被服庫。北の建物は明治38年、西の建物は大正2年増築。昭和22年から姫路市の庁舎、昭和58年から市の美術館になっている。中右端の小さな赤い屋根は旧陸軍第十師団長(中将)官舎。昭和4年築で現在はカトリック淳心会の施設になっている。

写真真ん中が姫路市立動物園。キリンなど哺乳類29種15②点。鳥類は59種200点。爬虫類9種22点いる。

大天守からの帰りは東小天守⇒「ロの波廊」⇒「ハの波廊」⇒「西小天守」を通って大天守に戻るコース


出口での案内

備前丸の入口あたりから

角度が少し異なると見える感じも異なる

大天守東側


備前門


この城壁の向こうが備前丸。大きな石は古墳の石室を流用したもの

上山里丸。山里丸という名称は軍事施設であるお城の中にあって、城主がほっとくつろげる休息のための空間、風雅を楽しむ空間のこと。一番有名なのは大坂城で、大坂夏の陣で秀頼と淀殿が自害した終焉の地でもある。

「姫路城三大おもしろエピソード」(「三大ウソ話」)の1つ「お菊井戸」
 本家は江戸番町皿屋敷だが播州でも江戸時代から広く語られていた。
 皿屋敷というのは、新しい城主が入ってきて城下の町割りを変えるたびにそれまでの住民が屋敷を更(さら)にして召し上げられるため、下々がときの為政者への恨みをこめた「更屋敷」伝説だ、という見方もある。
また備前丸の御殿や天守に近いことから抜け穴伝説もあったが、井戸の竪穴の途中に横穴はあるものの、岩盤によって行く手はさえぎられいる。

「ぬノ門」折廻渡櫓から直接接続した櫓門。天守閣に登ってきたルートが往時の「上道(うわみち)」、またこのぬノ門から上山里丸、帯曲輪を経由して本丸に登るルートを「下道(したみち)」と呼ぶ。また上道は本丸に登る公式ルートで、城主などが日常的に本丸に達するためには下道を使っていた、
この「ぬノ門」は下道をおさえる最後の守備の関門で扉、柱、冠木など全て鉄板で覆われている。
。また、門外は折れ曲がりの縄張となっている。奥の城壁が扇の勾配

櫓門の渡櫓部分が二階建てとなっており、この形の櫓門はかつて金沢城、彦根城、津山城、伊予松山城にもあったが、現存例では日本でここだけとなった。
これにより、頭上からの攻撃がダブルで集中的に行なえる


備前丸の石垣。この石垣の角の部分がよく扇の勾配の説明に使われる。角の石は長方形の石の長辺と単辺を交互に積み重ねていく、いわゆる算木積み。扇の勾配と算木積みは石垣が内部からの圧力で前方にはらみ出すのを抑え、く力を分散させる積み方。この技術が開発されたことで石垣を飛躍的に高く積むことができるようになった。当時、他所では低い石垣を二段重ねで積み対応していた。

二の丸から西の丸を見る

「ろノ門」の横から。

菱の門横から