書写山 圓教寺

西国三十三所のうち最大規模の寺院で書写山(しょしゃざん)に位置し、「西の比叡山」と呼ばれるほど寺格は高く、中世には、比叡山、大山とともに天台宗の三大道場と称された巨刹。

 山内には、姫路藩本多氏の墓所である本多家廟所があり、そこには本多忠刻に仕え殉死した宮本武蔵の養子・宮本三木之助などの墓もある。

室町時代の応永5年(1398年)から明治維新まで女人禁制であったため、女性は東坂参道の入口にある女人堂(現・如意輪寺)に札を納めて帰った。

 近年では、2003年公開のハリウッド映画『ラスト サムライ』[11]のほか、NHK大河ドラマ『武蔵』(2003年)や『源氏物語千年の謎』(2011年)、『天地明察』(2012年)、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』(2014年)、『駆け込み女と駆け出し男』『黒衣の刺客』(2015年)、『本能寺ホテル』『3月のライオン』『関ヶ原』(2017年)、『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』(2021年) のロケ地になった。  

康保3年(966年)、性空の創建と伝えられる。もとは素盞嗚命が山頂に降り立ち、一宿したという故事により、「素盞ノ杣」といわれ、山号の由来はこの「素盞(すさ)」といわれる。   創建当初は「書写寺」と称した。仏説において書写山は、釈迦如来による霊鷲山の一握の土で作られたと伝えられ、「書寫山」の字が当てられたのは、その山がまさに霊鷲山を「書き写した」ように似ることによるといわれる。また、山上の僧が一心に経典を書写する姿に、山麓の人たちが崇敬をもって称したとも伝えられる。  

性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)に来山して、圓教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立。花山法皇以外にも、後白河法皇や後醍醐天皇など多くの皇族が行幸、また勅願により建物の改築・改修、建立が行われている。   花山法皇勅願の「円教」という寺号には、輪円具足を教えるという意味がある。円の形(輪円)は欠けたところがなく、徳において最も成就した状態を象徴していることから、自己を完成する道を教える寺の意となる。   武蔵坊弁慶は、一時期、書写山で修行したとされ、机などゆかりの品も伝えられ公開されている。一遍、一向俊聖、国阿らの時衆聖らが参詣したことでも知られる。

天正6年(1578年)、織田信長より中国地方征伐を命じられた羽柴秀吉が、播磨制圧のため乱入し、摩尼殿の本尊である如意輪観音像などを近江の長浜に持ち帰った。秀吉乱入までは2万7千石の寺領を誇り守護使不入であり、天台三大道場として栄えていたが秀吉により500石とされ、寺力は落ちた。   その後、天正8年(1580年)に、長浜より如意輪観音像だけが戻された。この摩尼殿の本尊は、性空の如意輪観音像と同木同作の如意輪観音であった。性空の生木如意輪観音像は、延徳4年(1492年)の真言堂からの火災により、蓮鏡院、如意輪堂とともに焼失している。   摩尼殿は1921年(大正10年)12月に焼失したが、1933年(昭和8年)に再建された。 第140世長吏は、2021年(令和3年)11月22日第257世森川宏映天台座主遷化にともない、第258世天台座主に上任した。

姫路城前から15:33に出発したバスが信号待ちしているのを幸いに乗り込む。幸いにもそのバスは1日に3本しかないロープウェイ前直行で普通の便より15分早い15:55にロープウェイ前に到着。16:00発のロープウェイに乗ることが出来た。ただし乗る前に①風が強くなってきたので最終17時の下りは出発するかどうか分からない。②山上駅からのバスはこの時間からは出ない。歩くとなるとお寺を見る時間は殆ど無い の念を押された。

 


案内図。右下のロープウェイ駅から左端の開山堂まで歩いた。本堂まで普通に歩いて20分

入山料500円。もう窓口は閉まっていたが奥から係の人が出てきた。

ロープウェイを降りてから山門までの歩行路。マイクロバスの送迎(往復千円)もあるがもう終わっていた。100mごとに残りの距離の表示があった。

仁王門。元和3年(1617)再建。中に安置する金剛力士像は室町時代のもの。この仁王門周辺を「東谷」という。

摩尼殿 マニとは梵語の如意(思いのままになること)。 天禄元年(970)創建。 本尊は六臂如意輪観世音菩薩。この堂の創建前、天人が桜樹を礼拝するのを見て、上人が根のあるままの生木に観音像を刻んだ。 そのために岩山の中腹に舞台造りの建物となった。 本尊六臂如意輪観世音菩薩は、1月18日の鬼追いの日に開扉される。四天王立像もここに安置されている。
号は承安4年(1174)に参詣した後白河法皇による。1921年焼失し1933落慶

摩尼殿周辺は「中谷」と呼ばれる。ここまで8分ぐらいで来た
 
摩尼殿の中から奥に進む

左奥に見えるのは瑞光院

千年スギ。樹高35m、樹齢700-800年

西谷。左が食堂、右が大講堂。食堂の左に常行堂があり、「コ」の字型の配置になっている。また3棟を総称して「三之堂」(みつのどう)と呼ばれる。いずれも室町時代に再建されたもの。 摩尼殿から5分で来た。

大講堂。1462年建造。元の建物は寛和2年(986)に参詣した花山天皇の勅願で建立された。

食堂(じきどう)。古くは三宝院と称された。
2階の屋根は隣の常行堂の屋根に接する。桁行(正面)15間、梁間(側面)4間、入母屋造、本瓦葺。総2階建。わが国の近世以前の仏堂建築で、このように長大かつ総2階とするものは他に例がない。
承安4年(1174年)に参詣した後白河法皇の勅願により建立され、教興坊と称された。暦応元年(1338年)に再建、貞和4年(1348年)落慶といわれるが、現在の建物は、室町時代中期のものと考えられる。
1階は柱間15間のうち、北寄りの1間を引戸とするほかはすべて蔀戸(しとみど)とし、腰壁を設け、内部は円柱が並ぶ広大な1室とするなど、他に例を見ない構成になっている。

食堂と大講堂。屋根が重なりあっている

常行堂。大講堂に向き合う位置に建つ。入母屋造の常行堂の北側に、正面(東西)10間、側面2間、切妻造の吹き放しの建物が接続する特異な形式 切妻造の部分は東半部を「中門」、西半部を「楽屋」と称し、中央部に唐破風造、1間四方の「舞台」が突出する。 屋根はすべて本瓦葺。常行堂の部分は東を正面とし、常行堂の本尊・阿弥陀如来坐像を安置する。元弘年間(1331年 - 1334年)に建立。永享8年(1436年)の焼失後、享徳2年(1453年)に再建

本多家廟所。大講堂の東隣。元弘元年(1331)の落雷で焼失するまで五重塔が建っていた。
 

開山堂。開山の性空上人をまつる堂。 宝形造(方形造)、本瓦葺、桁行5間、梁間6間。奥之院の中核。
寺記によれば、性空が没した寛弘4年(1007年)、性空の高弟・延照が創建したとするが、現在の堂は寛文11年(1671年)に再建されたもの。
書寫山一千年の歴史のシンボルとして灯明が燃え続け朝夕欠かさず勤行が行われている。
軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士の彫刻のうち西北隅の一つは、重さに耐えかねて逃げ出したと言う伝説がある。

開山堂から食堂に戻る

食堂西側

三つの堂南西にある鐘楼。入母屋造、本瓦葺。桁行3間、梁間2間。様式は袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼。鎌倉時代、寺記によれば元亨4年(1324年)に鐘を再度鋳造したとあり、鐘楼は元徳3年・元弘元年(1331年)に焼失、元徳4年・元弘2年(1332年)に再建された。

常行堂南側

西谷からの帰りは車道を歩く。瑞光院の入口


摩尼殿

壽量院の西の入口。精進料理の案内。

壽量院、南の入口

展望台

山門近くにある釣り鐘。自由に鳴らすことが出来る

山上駅横の展望台から

明日は写真したの川沿いを北に進み、戻って南に進む

この時間ではもちろん終了

一隅を照らす。元の字は円教寺住職から延暦寺第258世座主になった大樹孝啓氏のもの

もうすぐ山麓駅というところで風が強くなり徐行運転に

ここから止まるまでが長かった。