教会めぐり
その1 ハリストス教会 正教会とはハリストス(キリスト)から弟子たちへ、その弟子達から次の弟子達へと二千年間連綿と受け継がれてきた歴史と伝統をもった教会。函館ハリストス正教会や東京神田のニコライ堂と同じく日本正教会に属している。明治6年(1873年)にイオアン小野壮五伝教者が神戸の地に正教を布教。大正2年(1913年)平野祇園町に会堂が建てられた。大正10年(1921年)トアロードにロシア人の二階建ての教会が建てられ、篭池野崎通りにもロシア人教会が出来、一時期、二つのロシア人教会と日本の正教会の三つが並列。 昭和20年(1945年) 平野にあった日本人正教徒の会堂が戦災によって焼失、しばらくは信徒宅を集会所として教会が存続。 昭和27年(1952年)チョコレートで有名なV・モロゾフ氏の尽力で、現在の地に「生神女就寝聖堂」が建立される。
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バプテスト教会 バプテスト教会は17世紀のイングランドで誕生。当時イングランドは、ヘンリー8世の離婚問題をきっかけとしてローマ・カトリック教会から脱する際、政教一致のイングランド国教会(英国国教会)が新たに誕生した。イングランドに生まれた人は信仰をもつ前に幼児洗礼(新生児洗礼)が授けられ国教会員になった。司祭は国の公務員であり、教会の礼拝も国の定めた方法や順序で行われることが義務付けられ、信仰は自覚的な自由なものではなく、制度的なものになっていた。そのような国による信仰の強制に対しプロテストした人々がピュリタン(清教徒)で、ピュリタンには、内部から国教会を改革するグループと、外に離れて改革するグループがあり、後者を「分離派」と呼ぶ。バプテストは、この分離派の運動の中から、特に「信仰は本人が自覚的に選び取るものであり、教会は自覚的信仰者の集まりであること。浸礼を尊重すること。国は個人の信仰に口を出す権威がないこと(政教分離の原則)。牧師は各個教会が決断して支えること。礼拝は聖書を中心に各個教会の信仰に合わせて行うこと。牧師は信徒の一人であり、教会は信徒が守ること。」などを主張。「バプテスト」は幼児洗礼をすでに受けさせられている者が、自覚的な信仰に基づき、もう一度浸礼(バプテスマ)をしたことから名づけられた。
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ジャイナ教 教会 ジャイナ教はB.C599年に貴族の子として生まれたヴァルダマーナが,30歳の時に世俗の快楽を一切捨ててマハーヴィーラと名を変えて広げられた宗教で,ブッダ(釈迦)の時代にほぼ同じ地域で広がった。ジャイナ教では宗教生活の基本的心得を、「三つの宝」(トリ・ラトナ、tri-ratna)と称して重んじる。 解脱を目的として行われる宗教生活上で重要なのは3の正しい行い、①正しい信仰、②正しい知識、③正しい行い、つまり戒律に従って正しい実践生活を送ること。 修行生活に関する規定は多くあるが、基本は出家者のための次の五つの大禁戒(マハーヴラタ、mahāvrata)、①生きものを傷つけないこと(アヒンサー)②虚偽のことばを口にしないこと、③他人のものを取らないこと、➃性的行為をいっさい行わないこと、⑤何ものも所有しないこと(無所有)
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わが国で唯一のこのジャイナ教教会の正式名はバグワン・マハビールスワミ・ジェイン寺院 |
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シナゴーグ(ユダヤ教会堂) シナゴーグはキリスト教の教会の前身であるが役割はやや異なる。 元々は聖書の朗読と解説を行う集会所であった。現在では祈りの場であると同時に、各地のディアスポラ(離散)のユダヤ人の礼拝や結婚、教育の場となり、また文化行事などを行うコミュニティーの中心的存在。ユダヤ人は約4,000年前からイスラエルの地において長い歴史の重要な部分を刻み、西暦1世紀に既に世界に離散。その後も約200年におよぶ十字軍侵攻(11~13 世紀)、ポグロム(17 世紀以降、ロシア・東欧地域におけるユダヤ人に対する破壊・殺戮行為を指すロシア語)、第2次世界大戦の欧州地域でのユダヤ人大虐殺(被害者数 600 万人以上)など苦難の歴史を歩んだ。1948 年にイスラエルが建国され約 1,900 年ぶりに独立を取り戻し、現在に至っている。
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OHEL SHELOMOとは中庭の意。 |
シナゴーグの奥の北野町西公園。市章山の登山口でもある |
登山口、イノシシ除けの柵がある |
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右が市章で左が錨 |
1907年(明治40年)、神戸港起工式を記念し、神戸市章の形に植樹。同年に西隣の碇山も錨形の植樹。1933年(昭和8年)に市章形を初点灯。以後毎年「みなとの祭」(神戸まつりの前身)の開催時のみ点灯されていた。第二次世界大戦前後の数年は中止されていたもののやがて復活。1967年(昭和42年)の神戸港開港百周年を機に、夜間電飾を恒常化。2003年から発光ダイオードに変更。神戸の市章は歴史的仮名遣で表記した「カウベ」に因む。1907年(明治40年)に制定。 |
神戸回教寺院(神戸イスラムモスク)
第一次世界大戦中・戦後に神戸に移住するイスラーム教徒が増え、モスクのニーズが強まり1928年(昭和3年)来日したインド人貿易商が資金集めに着手。フェローズッディン(Ferozuddin)は資金総額(12万円弱)の半分以上を負担、ボンベイに本社があるアフメド・アブドゥル・カリム兄弟社が次点の大口出資者となった。また神戸トルコ・タタール協会、在朝鮮タタール人、在神エジプト領事、シリア商人、エジプト領事館員も寄付を行った。1934年(昭和9年)11月14日にモスク建設認可が下り、竹中工務店と契約。鉄筋コンクリート造のモスク本体は、地上三階、地下一階で、設計はチェコ出身の建築家ヤン・ヨセフ・スワガーによる。1934年(昭和9年)11月30日に定礎式が行われた。トルコ・タタール人、インド人340名が参集、在日アフガニスタン国公使、在神エジプト領事、在神イギリス副領事、日本人トルコ学者等が出席。1935年(昭和10年)7月末に神戸モスクは竣工し、7月24日にモスク使用許可が与えられ、8月2日金曜日に献堂式が行われた。モスク委員長のインド人がモスク建立の経緯を語った後、フェローズッディンがモスクの開扉を依頼され、彼はこの日の為に特別に用意された銀の鍵で扉を開け、「日出づる国」初の「イスラーム寺院の開院」を宣言。これに続き会衆が「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」と唱えながらモスクへ入り、フェローズッディンによってミナレットの上から、アザーンが行われた後、モスクで初めての金曜礼拝が行われた。 献堂式の後、モスクの近くにあったトーアホテル(1950年に焼失)にて祝賀会が行われ、来賓の神戸市長勝田銀次郎は、イスラム教徒と日本との親交の増進を助望する祝辞を寄せた
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神戸栄光教会
イギリスでジョン・ウェスレーにより始められたプロテスタント教会の一つであるメソジスト教会の流れに属する教会。1886年にW.R.ランバス師がアメリカの南メソジスト監督教会から宣教師として派遣され、神戸美以教会を創設。また同氏は関西学院、啓明学院等を創設。 「神戸美以教会」の創設当初は、旧居留地47番地(現在の大丸の東向かい)にあったが、1887年に山二番館(JR元町駅の北側)に移転。1888年10月に第1会堂が現在の兵庫県庁東南角に建てられた。1907年、日本におけるメソジスト三派が合同し、教会の名称は「日本メソジスト神戸教会」となり、1941年の日本キリスト教団の成立時には「日本キリスト教団 神戸中央教会」となり、1942年に現在の名称である「日本キリスト教団 神戸栄光教会」となった。1923年に第2会堂が建てられ赤レンガの教会として親しまれたが、1995年の兵庫県南部大地震で全壊。2005年に現在の建物が第4会堂として再建。
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関帝廟
1888年に鎮座した寺院で関帝聖君(関帝)が主神で、他に大慈大悲観世音菩薩(聖観音)と天后聖母(媽祖)も祭ってある。1948年に建てられたものが1995年の阪神淡路大震災など過去に何度も被災し、1999年にそこから復興したもの。全体的な特徴としては日本の伝統的な建築様式に中国風の意匠や様式を取り入れ他にあまり例を見ない「華和(中日)折衷」となっている。管理運営は一般社団法人中華会舘。国内にある関帝廟は他に函館市函館中華会館、横浜中華街、和歌山県那智勝浦町、京都府福知山市、大阪市、長崎市崇福寺、長崎市興福寺、那覇市などにある。
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「関帝廟」の扁額は戦後初代の住職 釋仁光が台湾に行き、世界的に有名な書道家 于右任(元蒋介石の秘書)にお願いし書いてもらったもの。 |
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本堂の屋根に一際目立つ青龍は北京の紫禁城と同じ皇帝色の瓦の上に飾られている。宝玉をつかんで、お互いにらみ合っている青龍をみると幸せになるという言い伝えがある。 |
四阿の擬宝珠を四方にふきおろし、壁がなく八本の柱だけの雨をしのぐ 休憩所。 詩人、墨客が庭園を望み、心和ませる憩いの場所とされています。
「八角亭」や「清心亭」の別名がある。 |
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台湾檜の一刀彫で、黄河龍門の鯉が龍になる故事になぞらえて台湾で作ったものです。別名「登龍門」とも言われている。試験で合格した者だけがこの門を通
って出世するからです。 |
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