モンサンミッシェル その5 La Merveille(ラ・メルヴェイユ)

 

 1225~1228年に造られたラ・メルヴェイユ棟は、岩盤ではなく、勾配の急な斜面の上に人手でつくられた土台の上に建っている。 

 そのため、上部構造を軽くつくる必要があった。 花崗岩で出来た細い柱が回廊の屋根を支え、樫の木で造られたヴォールトが

 天井の役目を果たしている。 強度を上げるため,柱はずらして2列に配し、支点を増やした結果、真下の写字室の天井にかかる

 荷重は均等に振り分けられている。回廊の周りは、.教会、食堂、 寝室、図書室など,修道士の暮らす空間すべてが配置されている。             

                    

 



回廊。14:20

回廊のアーチとアーチの間に「エコワンソン」と呼ばれる彫刻装飾が施されている。「エコワンソン」は2種類あり、1つは三角形の表面すべてを覆う唐草模様、もう1つは3つの小さなバラに囲まれた円形花弁。これは唐草模様のほう。

二重の円柱列が並んでいる。屋根の荷重を二分するための構造になっている。

260㎡(78坪)ある。
騎士の間の上にあるので最初は中世には鉛で防水を施した。その後は花崗岩で覆い、1933にはスレートに取り替え、石膏で覆った木ずり下地の木枠組みでアーチの高さまで覆った。
の19世紀には雨水を集めるための升があった。1965年にフロワドヴォ―建築設計がドゥゲーヌ社が開発した防水の床構造を用いブリュノ・ド・セヌヴェル修道院長の計画により23種類の薬草を植えた。

回廊(ラ・メルヴェイユの西側)から左上が西のテラス、眼下に修道院庭む

この回廊は僧が散策、会話、読書、祈り、瞑想などを行った。また祝祭日にはここで礼拝の行進がおこなわれた 
奥の三角屋根が食堂。 屋根の斜面の円筒は、2階の客間の暖炉から伸びる煙突。

柱は、全部で137本。内の10本だけが元々あったもの。1877年に始まった回廊の修復工事で、エドゥーアード・コロイヤー(ÉdouardCorroyer) は、殆どの柱身を作り直し、傷みの目立つ彫刻を復元し、樫の木の板張りで半円筒ヴォールトを備えた骨組みを据えた。

工事前はこんな感じ

左の間取り図のように回廊の隣は食堂になっている


3階間取図
上からChapitre jamais construit(予定のみ)
   Chartrier(古文書保存室) les 3 arches(3つのアーチ)
     Cloitre(回廊) Refectoire(食堂) Cuisine(台所)

Refectoire(食堂)
修道僧の説教が隅々まで行き渡るように設計されている。
修道僧は説教を聴きつつ、沈黙のうちに食事をとった。

両脇に59もの小窓が配されている

食事中の会話は禁止されているため、ワインや調味料の遣り取りは、全てジェスチャーで行っていた。 主に食べていたのは、スープ、野菜、パンで、飲み物はワインだった。
肉は貴重品で、たまに、魚や鳥肉は食べることが出来が、四本足の動物は食べることは出来なかった。

階段の上部は、説教壇に類するもので、食事中はこの壇上で、聖書やベネディクト派の教えが説かれ、それを聞きながら食事をしていた。 13~14世紀頃は、修道士の数は一番多く、約60人程度いたが、現在では12人になっている。 左上の写真の右奥あたり。

食堂の一番奥(東)

左奥にある入口の左右の壁内には、2階の客間 にある暖炉の煙突が屋上まで伸びている。 そのため、入口の壁は分厚くなっている。

食堂から客間への階段

階段の踊り場にある大天使ミカエルとオベール司教のレリーフ
モン・サン・ミシェルに礼拝堂を作るきっかけとなったエピソードを示すレリーフ。
3度目の夢の中で大天使ミカエルからの「この岩山に聖堂を立てよ」とのお告げが本物であることを確信したシーン。
このとき大天使ミカエルは指で司祭の頭に穴を開けたとのことで、穴の開いた頭蓋骨が礼拝堂に展示されている。 

客間入口

2階間取図
中上から Salle des Chevaliers(騎士の間) salle des Hotes(客間) 
     Porche(ポーチ) Ch.Ste-Madeliene(マドリアンヌ城)
     Ch.des Trente Cierges(30個のキャンドル)
       Crypte des gros-pillers(太柱の地下礼拝堂)
         Ch.st-Martin(サン・マルタン礼拝堂) Ossuaire(納骨堂)
         Grand Degue(大階段)
左上から Promenoir des moines(修道士の散歩)
     Galerie Nord-sud(南北ギャラリー)
     N.D.sous-terre(ND地下) citerne(タンク)
     Infirmerie de R.de Torigni(デトリニ診療所)
      Ch.St-Etienne(サンティエンヌ礼拝堂)

この客間で王侯貴族の訪問者をもてなした

客間入口を振り返る

暖炉

有名な巡礼地であったため、多くの王侯貴族達も巡礼に訪れていた。 フランスの国王や高貴な巡礼者達は、多額の寄付をしており、豪華な食事やワインを出してもてなした。
料理はすぐ隣のタペストリーで区切られた厨房で作られ、温かい料理を供することが出来た。
床は絨毯が敷かれ、壁はタペストリーで飾られ、天井には豪華な絵が施されていた。しかし、フランス革命などで荒廃した。


聖マドレーヌ礼拝堂 [Ch. Ste-Madeleine]
上の間取り図の黄色の四角の右。客間に隣接。
13世紀に建てられマグダラのマリアに捧げられている。
賓客達は、ここでお祈りを捧げた後、宴席に着いていた。

窓ガラスには、巡礼の象徴であるホタテ貝と "マグダラのマリア" の象徴である香油壺が描かれている。
聖マドレーヌ礼拝堂の後ろ側
     
     

上の2階間取図の黄色部分

奥が客間。煙突は暖房用

Crypte des gros-pillers(太柱の地下礼拝堂)
上の間取り図でも10本柱であるこが分かる。
天井アーチは、フランボワイヤン [Flamboyant] 様式で造られている。この様式は375年ごろから16世紀中期まで、中世後期からルネサンス期のヨーロッパで発展した後期ゴシック建築の一様式。
語源となった火焔(flamboyant)のようなかたちをした二重カーブのバー・トレーサリー、ヴォールトにおけるアーチ型の装飾リブと、アコレードとよばれる装飾アーチの多用に特徴づけられる。

この礼拝堂は修道院付属教会の内陣を支えるために15世紀の中頃に造られた。修道院付属教会の身廊部分は岩山の岩盤の上に直接造られている。

柱の円周は5m

19世紀には囚人が最終判決を待つ場所として使われた。

天井に開けられた穴は、内陣の床を貫通しており、嘗て、鐘楼に鐘を吊り上げた際に用いられた。 今は、安全のため、ガラス板と格子で塞がれている。

地下礼拝堂の隣にあるサン・マルタン礼拝堂(Chapelle Sant Martin)
この礼拝堂は修道院付属教会の十字部分の南側の翼を支えるために造られた。この礼拝堂の丸天井は9mの高さがある

このサン・マルタン礼拝堂は上の教会の右翼の下にあたる。
窓の壁厚は3mありこの部屋は付属教会の基礎としての役割を担う。

左側の通路は、納骨堂 への通路

上の配置図の赤い四角あたりから


大天使像は、1895年、パリのモンデュイ社 [Les Ateliers Monduit] で鋳造され、鋼鉄の表面を銅板で蔽い、金めっきを施してある。
身長は 2.8m、翼と剣の先端までを合わせると 4.5mの高さがあり、重量は 520㎏。
モンデュイ社はフランスからアメリカ合衆国に贈られた自由の女神像を鋳造したことでも知られている。
1935、1987年、2016年の三度修復されている。1935年の修復は尖塔上で行われ、1987年と 2016年の修復はヘリコプターで吊り下ろして行われた。

修復中の大天使像


Ossuaire(納骨堂)。上の間取り図の赤い四角の左

1789年7月14日、バスチーユ監獄が襲撃された。1年後に革命派は「海上のバスチーユ」であるモン・サン・ミッシェルを占拠し、そこに残っていた。
修道士による装飾が施された貴重な写本をアヴランシュに運び、モン・サン・ミッシェルを革命政府のための監獄にした。

聖職者民事基本法に従わない司祭を投獄するのが目的だった。
これらの行動は、アヴランシュにおける共和派の「青服」と王党派の「白服」との果てしない戦いのなかで進められた。
第一帝政期の1811年以降、モン・サン・ミッシェルは常設の監獄となる。 この機能は王政復古時代にも引き継がれ、軽罪、重罪刑務所という公式名称を与えられる。
47年間監獄として使われ 延べ1万4000人がここで獄中生活を送った


この大車輪は荷車を運搬するために使われていた中世の昇降機を復元したもの。ここはかつては修道僧の納骨堂だったたが、修道院が政治犯が幽閉される監獄になっていたとき、食料を下から引き上げるために1820年頃に設置された。
かつては6人の囚人が車輪の中に入り、人力で壁のレールに沿った荷車を上下させていた

右に立て掛けてあるのは、荷物をこれに乗せ外壁面との摩擦を減らしていたコロ。

ここから引き上げた

 

"病院"(14世紀初頭に崩壊)と "修道僧の納骨堂" の間にある、亡くなった修道士のための礼拝堂。 正面祭壇の台座には、ギリシャ文字でΑ(アルファ)とΩ(オメガ)の文字が刻まれている。Α は、ギリシャ文字の最初の文字で、Ω は最後の文字であることから、最初から最後までを意味し、「生と死」「永遠」を示唆。

Ossuaire(納骨堂)の西隣のCh.St-Etienne(サンティエンヌ礼拝堂。聖ステファヌス礼拝堂 [Chapelle Saint-Stephanus]と同義語)
19世紀まで死者の安置所だった。その先には19世紀に崩壊した医務室があった。写真の右の像は死せるキリストを抱く聖母マリアの像「ピエタ」。 フランス革命の時に、マリアの膝に抱かれたキリスト像の頭部が無くなった。
中左のドアの向こうに、ロバート・デ・トリニーの病院([Infirmerie de Robert de Torigni)がある。 ロバート・デ・トリニーは第十六モン・サン・ミッシェル修道院長で、病院とエティエンヌ礼拝堂を造った。 

正面の壁にある1/4状の円盤は、"3人の死者と3人の聖者" と題したフレスコ画で、13世紀のオリジナル作品。
左側にあった、もう一枚の作品は無くなっている。
このフレスコ画は、生きている間は、修道士、王侯貴族、庶民など、身分の差はあっても、死んでしまえば身分の差など無くなってしまう事を示唆。元はロバート・デ・トリニーの病院内にあった。

1階に降りる階段。配置図からここは降りなかった。たぶん降りられなかった。


2段上右の写真の右の扉を先に進むと、南北をつなぐ階段がある。これがGalerie Nord-sud(南北ギャラリー 南北階段:Escalier nord-sudともいわれる)
ちょうど西のテラスTerrasse de l'Ouestの下に位置し、元々は巡礼者達が教会に上がっていくための巡礼の道だった。
ロマネスク様式の教会の中心となる通路。


階段の途中には未公開の礼拝堂もある。

        
2階の北側に出る。
奥がPromenoir des moines(修道士の散歩)。右の間取り図の緑の四角。
 

2階
左上から Promenoir des moines(修道士の散歩)
     Galerie Nord-sud(南北ギャラリー)
     N.D.sous-terre(ND地下) citerne(タンク)
     Infirmerie de R.de Torigni(デトリニ診療所)
      Ch.St-Etienne(サンティエンヌ礼拝堂)
中上から Salle des Chevaliers(騎士の間) salle des Hotes(客間)
         Porche(ポーチ) Ch.Ste-Madeliene(マドリアンヌ城)
     Ch.des Trente Cierges(30個のキャンドル)
     Crypte des gros-pillers(太柱の地下礼拝堂)
     Ch.st-Martin(聖マーチン)
     Ossuaire(納骨堂) Grand Degue(大階段)
         Appartements de L'abbe(ロベール・デ・トリニ修道院長の
                部屋)
     Bailliverie(保釈?) Logis abbatiaux(修道院の住居) 
右上から chatelet(城塞) Officialite(宗教裁判所)
     Belle-Chaise(美しい椅子)Tour Perrine(ペリーヌの塔) 

修道僧の遊歩道と名付けられたのは19世紀になって、遊歩道と名付けられた、2つの身廊を持つ長い部屋は何のための部屋か不明。
ロマネスク様式からゴシック様式への過渡期に造られたため、2つの様式が混在。分厚い壁はロマネスク様式、天井は12世紀初頭に生まれたゴシック様式のヴォールトと呼ばれる様式が使われている。
 

壁面には、元々の岩山が露出している箇所がある


Salle des Chevaliers(騎士の間)。客間の西隣に位置する

騎士の間は、実は修道士の写字室。
モン・サン・ミッシェルが修道院だった時代には、騎士や在俗の者は一人として修道士専用のこの場所に足を踏み入れたことはなかった。 しかし19世紀に画家たちがモン・サン・ミッシェルに注目したとき、彼らはこの部屋を背景に騎士と犬を描いたため、"騎士の間" と呼ばれるようになった。
     

上階の回廊と中庭を支えるために建設され、ここで修道僧たちは写本をしたり執務に励んでいた。手がかじかむと写本が出来ないため、この部屋には暖炉が設けられ、断熱を兼ねたタペストリーが壁に掛けられていた。
ここに所蔵されていた数千の文献は、フランス革命で殆ど無くなり残ったのは203冊のみであった。 残った文献はオベール司教がいたアヴランシュの市立図書館に保存されている。
天井にカビがあるのは、この上が回廊の中庭であるため、雨水の浸透によって生じている。 また、床下には貯蔵庫があり、ワインや食料などを貯蔵していた。

写真右の螺旋階段は2階の騎士の間から1階のAumonerie(地下室。救貧、布施分配室)に降りるもの。下の1階間取図の赤い丸のところ。

1階
左上からsalle de l'aquiolon(アクイオンのホール) 
     N.D.sous-terre(ND地下)
     anc.hotellerie (古い宿泊所)
中上から Cellier(地下室) Aumonerie(救貧、布施分配室) Rocher(岩)
右上からchatelet(城塞) Le Gouffre(深淵)
    Salle des gardes(警備室) Belle-Chaise(美しい椅子)
        Tour Perrine(ペリーヌの塔) Grand Degre(大階段)
     logis abbatiaux(修道院の住居)

1階の Aumonerie(地下室。救貧、布施分配室)は売店になっている

小銭入れ25.9ユーロ


北側の庭に出る。15:00ぐらい

La Merveille(ラ・メルヴェイユ)の西側。右上が西のテラス


奥は十字型の教会の縦の線の元の方

島の北西に降りる階段
 


3つの窓の奥が回廊