シンガポール領有の権利を譲ってくれたサルタンの話
ラッフルズが上陸する前のシンガポール付近はジョホール王国のサルタンが治める場所だった。
ラッフルズはオランダに対抗してイギリスが貿易上の利益を守っていくためにはこのマラッカ海峡の要である
シンガポールに植民地を作ることが必要だと考えていたが、そのためにこの土地をジョホール王国のサルタ
ンから獲得する必要があった。
ラッフルズは、トゥムンゴンと呼ばれるシンガポールの代官に租借を申し出るが、代官からは承認が得られ
なかった。こうした条約の締結にはサルタンの承認が必要であったが、その当時、息子二人による跡目争い
が起きていた。
具体的には本来国を継ぐべき長男が結婚するため、現在のマレーシア中部のパハンに行っている間に、こ
の海域を事実上支配していたブギス族にまつりあげられた弟が、一方的にサルタンに即位させられるという
事件があった。
しかも、この弟を即位をイギリスと対抗していたオランダが承認していたので、イギリスがいくら領地の割譲や
租借を申し出ても首を縦にはふらなかった。
ラッフルズは強攻策に出て、マレーシアからこの長男を連れ戻し、こちらも一方的にジョホール王国のサルタ
ンだと宣言し、「サルタン・フセイン・シャー」という称号を与えて、この長男と条約を締結しシンガポールを手に
入れた。1819年2月のことだった。
普通であれば軍事紛争があっても不思議でなかったが、オランダはラッフルズが勝手にやっていることだから、
インドにいるイギリスの総督が認めるわけが判断。そして1824年にはイギリスとオランダが手打ちをして条約
を結び、この中でイギリスのシンガポール領有を認めた。
こうしてイギリスの領有が決まると、例の長男のサルタン・フセイン・シャーは、ラッフルズとの間で、シンガポー
ルと周辺10マイルの権利を放棄し、引き替えに自分自身とシンガポールの代官が、一時金と毎年の年金をも
らうという取引を行った。ここで名実共にイギリスの植民地になった。
ラッフルズはサルタンに対し敬意を払い、現在のアラブストリート周辺の「カンポン・グラム」と呼ばれる地域一帯
を、サルタンにとっての「領地」として認めると共に、ここにサルタンのための王宮「イスタナ」とモスクを建て、周囲
をマレー半島、インドネシア、ジャワ、アラビアなどのイスラム商人の居住地として割り当て、イスラム街を作ってい
った。
ここでできたモスクが現在のサルタンモスクであり、イスタナは現在もその姿を残している。カンポングラム自体は、
次第に売却や貸与などによって、その範囲を狭めていきますが、現在のイスタナ周辺の壁で囲まれた不必要なほ
ど広い敷地は、その名残り。
19世紀の後半になると、カンポングラム周辺は、スマトラやインドネシア、マレー半島などを中心としマレー系・イン
ドネシア系の移民がどんどん増え、小さな村(カンポン)を形成するようになった。しかし、この中でひときわ異彩を放
っていたのはアラブからの移民だった。
彼らは当時、イスラム教徒のメッカ巡礼のエージェントとして、関連するサービスの提供を行ってた。シンガポールは
東アジアからメッカへ向けて旅をするためには重要な港であったことから、こういう商売が成り立った。エージェントは、
自分の家を宿泊施設として巡礼者に提供し、このあたりはメッカ巡礼者でにぎわったという。
こうした商売をしていたアラブ移民は、数は決して多くなく、1000人を超えることのない小規模移民でしたが、経済的
に成功していくものが多く、大変裕福になっていった。そして、同時にモスクやイスラムの学校の寄進や寄附、イスラム
教の教育などにリーダー的な役割を果たすようになり、人々の尊敬を受けるようになっていった。
こうしたアラブ移民の影響力は道に名前がつけられることによって土地に刻み込まれていった。つまり、彼らの出身地
であるアラブ各地の都市やイスラム関係の名が道の名前になり、バグダッド・ストリート、ブッソラー・ストリート、カンダ
ハー・ストリート、ハジ・レーンといった名前が付けられていき、メインストリートは極めつけで「アラブストリート」と名付け
られた。
20世紀になると、経済規模の拡大に伴って、この地区への移民の数が増大しはじめ、新しいショップハウスや住宅が
たくさん建設されるようになり、この中にはインド系や中国系の小売商なども含まれるようになってきた。
こうした混雑を嫌った裕福なアラブ系移民たちは、次第に郊外へと移り住むようになった。さらに政府の方針もありマレ
ー系の住民が現在のMRTパヤレバ近くのゲイランセライや、MRTユーノス駅付近のカンポンへと集団移転した。
こうして1920年代までには、アラブ系やマレー系の住民はぐっと少なくなり、そのかわりに中国系・インド系の小売商
が立ち並ぶ街に変貌した。アラブ人がおらずインド系・中国系のお店が多い街になったのはこうした流れの結果である。
しかし、こうした変化にも関わらず、カンポングラム周辺は1924年に立て直された現在のサルタンモスクやイスラム学
校などを中心としたイスラム文化の一大拠点であり続けており、今でもシンガポールのイスラム教徒にとっては、他とは
違う重要な場所になっている。
1990年代になると、カンポングラム周辺は歴史的景観保存地区に指定され、チャイナタウンやリトルインディアと同様、
ショップハウスの改修などが行われ、現在に至っている。
