バッファローストリートの由来(リトルインディアの歴史)

 

<最初は中国人の野菜畑>

  シンガポールには、民族の拠点ともいうべき地域がいくつかある。中国系のチャイナタウン、

  マレー系の原住民の拠点だったカンポングラム(アラブストリート周辺)、そして、このリトル

  インディア。このうち、リトルインディアだけは他の地域と比べ少し変わった歴史をもっている。

  

  シンガポールはスタンフォード・ラッフルズ率いるイギリス東インド会社が開拓したといっても

  過言ではない歴史をもっているすが、その最初の段階で、ラッフルズは、流入が始まった各

  国からの移民に対し、民族ごとに居住する地域を定めるという植民地政策をとった。

   この段階でインド系の住民に与えられたのは、現在のクラークキーの対岸付近やボートキ

  ーの裏付近だった。現在リトルインディアがあるセラングーンロード周辺はマングローブの生

  い茂る湿地帯(沼地)に過ぎませんでした。

 

   この沼地だったセラングーン周辺が変わる大きな契機になったのが、1828年に植民地政

  府によって計画されたシンガポール本島縦断道路の建設計画。これはジョホール水道のウビ

  ン島やジョホールでの製材、採石などの産業が盛んになるにつれ、現在のチャイナタウン、シ

  ティホール付近の街と結ぶ必要が出てきた。

   現在のセラングーンロードあたりの道路が完成すると、この付近は一気に拓け中国系人の

  野菜畑や砂糖のプランテーションなどができるようになった。そして、こうした人の増加による

  必要性の高まりから、1836年にローチョール・キャナル(運河)が開かれることになりまった。

  この時点では、まだ、インド系住民はいなかった。

 

<ヨーロッパ人の優雅な別荘地時代>

  中国系の人たちの後にこのエリアに入ってきたのは、ヨーロッパ系の人たちだった。そのきっか

 けになったのは、競馬場の完成でした。シンガポールの競馬場といえば、現在はブキティマにある

 が、最初の競馬場は、現在のリトルインディアのレースコースロード北にある公園(ファーラーパー

 ク)の場所にあった。

  1840年代に競馬場が完成し、競馬が行われるようになると、ヨーロッパ系の人たちはこの付近

 に邸宅を建築し、優雅な暮らしを楽しむようになった。現在のリトルインディアの小道の名前を見る

 と、DunlopとかCuffとか、Dickson、Cliveといった、どう見てもヨーロッパ系の人の名前とした思えな

 い表記を目にするが、このあたりの小道は、こうしたヨーロッパ系の住民の邸宅へ向かう通路の名

 残。

 

<牛貿易の拡大とインド人の増大>

  この頃、セラングーンロード付近では、急激に牛の取引、輸入が盛んになった。これは産業が発

 展していくにしたがって、輸送のために、機械を動かす動力として、また、果物等の収穫などに使わ

 れるようになっていったため。セラングーンロード付近は、元々沼地で、水も豊富で、緑豊かな土地

 であったことが、ここに牛のビジネスを定着されたのですね。そして、この付近の産業は、農業から

 牛の貿易取引拠点へと変貌を遂げていくことになる。

 

  この牛の貿易の主役になったのがインド系の人たち。当時、牛の豪商だったI.R.Beliliosという人は、

 ベネチアのユダヤ人だったが、生まれたのがインドのカルカッタで、多くの人たちを様々な形の労働

 者として、出身地のインドから雇って連れてきた。これがまず多くのインド系人が流入するきっかけ。

  さらに、こうした牛の貿易にインド系の人たちが携わり、牛貿易の拠点であるセラングンロード付近

 はインド系人の密度がどんどん高くなっていったのです。

 

 このほかに、インドからわたってくる人たちで多かったのは、建設産業の労働者として来た人たち。

 彼らは、1820年代のイスタナ(現在のアラブストリートにあるもの)や、セント・アンドリュー教会など

 の大規模建物の建設に従事するため連れてこられたのが最初だったが、19世紀終わりになると、

 国内の発展にしたがって建物等の建設ラッシュになり、労働者としてインドからわたってくる人が増え

 た。

 

<商業地への脱皮>

 この頃には、セラングーンロード周辺の道路は現在とほぼ同じ形態に整備された。さらに、インド系の

 人たちの増加につれ、これらの人たちの食事、生活等の需要からインド本国との貿易が増えてきたこ

 とから、その貿易に携わる移民も増えてくるようになりました。このあたりから、牛の貿易に携わるイン

 ド系人よりも、労働者や各種物資、食品等の貿易に携わるインド系人の方が多くなった。

 

 20世紀に入ると、牛の貿易は統合されるようになる一方、小売・商業の業者が増大し、新規の貿易業

 者や仲介業者も出てくるようになり、セラングーンロード周辺はお店としてのショップハウスがさかんに

 建設されるようになった。大きな企業が拠点を構えたり、1915年には、現在のズジャオセンターの前

 身であるカンダン・カーバウ・マーケットも完成して、セラングーンロード周辺は商業地区としての性格を

 決定的なものにした。

 

 こうなると、牛を飼う場所も次第に商業地区として浸食されるようになり、同時に牛貿易のビジネスも次

 第に衰退した。決定的だったのは、1920年代から30年代の世界的な牛の伝染病の発生で、世界各

 国で牛の輸送、貿易を禁止するようになり、セラングーンロード周辺の牛貿易はほぼ消滅した。

 

 こうしてこれまで牛が占拠していた場所はインド系の人たちを中心とした商業地、住宅地に変わり、現

 在のリトルインディアが形成されていったのです。こうした商業の発展は、第二次世界大戦で一時とぎ

 れたものの、戦後はさらに発展し、一大商業地区となっていった。

 

<現在のリトルインディアの完成>

 1960年代になり、リークアンユー率いる人民行動党政府の住宅政策が進むと、リトルインディアのショ

 ップハウスに住んでいた人たちはHDB住宅に移り住むこととなった。戦後の混乱で生じていたスラムも

 70年代には一掃され、80年代の巨大HDB住宅の整備で、リトルインディアはシンガポール全土に住む

 インド系の住民を対象とした小売商業地区へと純化された。

  1989年7月に、リトルインディア地区は歴史的景観保存地区に指定され、ショップハウスの改装保存

 の工事がはじめられ、観光地としての要素ももつ現在の「リトルインディア」となって、いまに至っている。