シンガポール植物園を守った日本人の話
オーチャード・ロードの西端の先に広がるシンンガポール植物園(Singapore Botanic Gardens )は、
52ヘクタール(16万坪)という広大な広さを誇る世界有数の熱帯植物園で、シンガポール市内観光
の有名スポットの一つになっています。
園内には、ジャングルを思わせるような熱帯植物が鬱蒼(うっそう)と生い茂り、綺麗に手入された
庭や池には水鳥が遊び、園内に併設されているシンガポール国立蘭園(the National Orchid Garden)
には、700種の原種と 3000種もの交配種があるといわれます。
この植物園は、イギリス植民地時代の1859年、熱帯産の有用植物の栽培と研究を目的に設立された
植物園で、当時はシンガポールの創設者トーマス・ラッフルズ卿にちなんで、博物館(現在のシンガポ
ール歴史博物館、シンガポール美術館、アジア文明博物館の前身)とセットでラッフルズ博物館と呼ば
れていました。
シンガポールは、昭和17年(1942年)2月から終戦までの3年半、日本軍によって占領されますが、日
本軍の占領と同時に、ラッフルズ博物館は改名させられ、「昭南博物館」と呼ばれるようになりました。
日本軍の占領で、それまで植物園や博物館に蓄積されてきた標本や論文などの文化財が破壊される
のではないかと危惧したイギリス人学者がいました。ケンブリッジ大学で生物学を学び、卒業以来シン
ガポールに移り住んで13年間、植物園や博物館で研究を続けてきたE・J・H・コーナー博士です。
そのような状況のとき、シンガポールの文化財を守るため日本から一人の学者がやってきました。東
北帝国大学で地質学を研究していた田中舘(たなかだて)秀三博士(1884〜1951年)です。
田中舘は、コーナー博士の窮地を知るやいなや、当寺「マレーの虎」という異名で恐れられていた現地
指令官・山下奉文(やましたともゆき、1885〜1946年)将軍のところに直接談判にでかけ、博物館館長
の口頭辞令をもらい付けます。
こうして、田中舘のもとで、博物館と植物園の保護と管理、日本人学者とここに勤務する、今は捕虜の
身となったイギリス人学者たちとの協同研究が始まったのです。
田中舘は無給の館長であったばかりでなく、博物館・植物園の金庫はからっぽだったので、私財をは
たいてコーナー博士らイギリス人学者や現地人雇用者を食わせていかなくてはなりませんでした。
田中舘は、シンガポールに来た時の服を何ヶ月も着たままだったので、服はぼろぼろで、それでも平気
な顔でいましたが、コーナー博士らが気の毒がって、空き家で見つけた上着やズボンをプレゼントして着
せたほどっだったそうです。
尾張徳川家19代当主に徳川義親(としちか、1886〜1976年)という人がいました。木彫りの熊は、昔から
北海道の名産だったと思われがちですが、その義親侯がスイス土産だったものを元尾張藩の開拓村で
作らせたのが始まりだそうです。
義親侯は、殿様でありながら、ジョホール王国(現マレーシアジョホール州)のサルタン(君主)の招きで
マレー半島に赴いて、マレーの虎狩りを行ったり、戦後、日本社会党結成にあたって資金援助をしたり
したユニークな人でした。
その義親候が、山下将軍の軍政顧問としてシンガポールにやってきました。田中舘らの活動に深い理解
を寄せ、その後義親候自らが昭南博物館の総長となり、植物園長と博物館長として日本から二人の学者
が新たに赴任してくることになりました。
役目を終えた田中舘は、昭和18年(1943年)7月、帰国します。義親候のもとで植物園長となったのが、
京都帝大理学部植物学科の初代教授の郡場寛(こおりばひろし、1882〜1957年)でした。
昭和20年(1945年)8月、日本軍が降伏し、9月にはイギリス軍が上陸しました。イギリス人捕虜が釈放さ
れるのと同時に、今度は博物館と植物園に残っていた日本人学者たちが抑留される身になりました。コー
ナー博士は、イギリス軍司令部に占領中の彼らの功績を説明して釈放を願い出ましたが、日本人学者た
ちは同胞と共に収容所に留まる道を選んだそうです。
田中舘や義親候たちの働きがなければ、ラッフルズ博物館の文化財は略奪されたり、破壊されたであろう
といわれています。思い返せば、苛烈を極めた世界大戦の末期に国籍を超え、学問のために一致団結し
て博物館や植物園を守り抜いた人たちがいたことは、コーナー博士にとって驚きだったに違いありません。
上述の話しは、E・J・H・コーナー博士が田中館秀三や徳川義親候たちの思い出を回想して著した『思い出
の昭南博物館』(石井美樹子編訳、1982年・中公新書)やこの著作に触発されて戸川幸夫氏が書いた小説
『昭南島物語(上)(下)』(1990年・読売新聞社)などによって語り継がれているものです。