桂離宮 その1霰こぼし
桂離宮は修学院離宮を造営した後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)の叔父にあたる八条宮 智仁親王(はちじょうのみや ともひとしんのう)によって造営。後陽成天皇(ごようぜい)の弟でもある。江戸初期(1615年頃)に造営開始して、1622年に現在の姿となった。明治16年に宮内庁所管となり桂離宮と称される。
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専用駐車場 |
テントの向こうは当日参観の方で予約者は入口前に並ぶ |
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入口。手前は桂離宮に5つある土橋の1つで通称「御輿寄前橋」 |
事務所で申込と参観料を払う |
券売機で参観料を払い、受付で本人確認を行い、参観証をもらう |
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奥の待合室へ。 |
全体図 |
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視覚効果と音響効果の説明板。詳細は写した写真で説明します。 |
唐紙の製造工程の案内板 |
唐紙の版木。五三小桐紋 |
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唐紙を利用している箇所の案内板 |
左上は古書院の五七大桐紋で胡粉(貝殻から作る白色顔料)地に黄土。右上は新御殿の五三小桐紋(同じ材料)。左下は楽器の間の五三小桐紋(胡粉地に雲母)、新御殿御湯殿の五三小桐紋(黄土地に雲母) |
五七大桐紋の版木 |
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五七大桐紋の襖の見本 |
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霰こぼしの説明。のちほど説明します |
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新御殿に使われている水仙形釘隠し |
新御殿の月字形引手 |
楽器の間の松葉形引手 |
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同じ松葉形引手だが、中の彫りが異なる |
中書院のひょうたん形引手 |
霰こぼしの説明 |
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継承される造園技術の極致 霰こぼしとは、玉石を敷き並べて固めた苑路で、その名称は霰をまき散らした 風情に仕上げることに由来する。 この仕上げは、後水尾上皇の御幸に際し、雨の後に興を担ぐ人々の草鞋が、泥土に染まることを防ぐためであったと伝えられる。 あられこぼしの面積は283㎡で、1㎡ 当たり450-500個の石が使用され、全体で約13万個の石が使用されている。 地元桂川水系の堆積岩(チャート)を使用し、特に黒色の縦長で上端が平滑なものを選別している。それも現在では希少となり、一つでも失わないよう大切に管理する必要がある。 桂離宮のあられこぼしは、漆喰などを使わず、土に石材を打ち込むだけの構造だが、小石を縦長に使うことで、土中で石同士がしっかりとかみ合い、固定される。 石を張り並べる際は、小石を1つ1つバズ ルのように合わせて美しい目地模様を作り上げる。 一人前の職人でも1日当たり20cm-30cm角程の施工量で、とても根気の要る作業。 桂離宮のあられこぼしの端正でやわらかな美しさは、丹念な手仕事の継承によって 実現されている。 |
通用門の黒御門。門の右は黒文字垣 |
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戸をくぐると霰こぼしが現れる |
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正面奥は「住吉の松」。屋根は4つある茶亭の1つ松琴亭 |
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「住吉の松」は視界を遮るかのように松があることにより「衝立の松(ついたてのまつ)」とも呼ばれる。見えそうで見えない、苑路散策に期待感を持たせる演出。
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生垣の刈込が絶妙。通称「御幸土橋」(2/5)を渡る |
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月波楼 |
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御幸門。最初の御幸門は 後水尾上皇の御幸を迎えるために設けられたが その後失われ 現在の門は第七代家仁親王の時代に作られた形式。 |
この四角い石は御輿を置くためのもので「御輿石(オコシイシ)」と呼ばれている。 |
奥へ続く道が御幸道 |
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奥は正門の御成門 |
駐車場側から撮った御成門。竹の穂垣に挟まれ、門柱は檜丸太で 袖も扉も磨き竹を詰打ちにした簡素な門。
普段は閉じられていて 皇族方や国賓級の方々の来訪の時のみ開かれる。 |
柱は周囲の景色に合うように皮付となっている |
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来た道を振り返る |
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両側を少し低くして雨水の水はけを良くしている |
ちょっとした植栽も手入れが行き届いている |
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待合室にあった大正7年に作成された俯瞰図を加工。 画面下から時計と反対回りに進む 真ん中下の突き出た先が住吉の松で、左下の門が御幸門 | |