桂離宮 書院群と月波楼

 

左から新御殿、中書院、古書院。広い芝生が広がり、昔は「梅の馬場」と呼ばれた馬場や弓場があり、書院に近い所は蹴鞠の庭として使われた。
左奥に賞花亭が見える土橋は賞花亭と古書院を結ぶ土橋(4/5)

新御殿
南北棟の入母屋造、杮葺の建物で規模は7間四方、実寸は一辺約14m。内部は9室に分かれ、南東に主室の「一の間」、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」。
一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。柱は中書院同様、杉の面皮柱。
一の間は9畳大で、うち南西の3畳分を框一段分高くなった「上段」とし、ここに桂棚と付書院がある。桂棚は修学院離宮の「霞棚」、醍醐寺三宝院の「醍醐棚」とともに「天下三名棚」に数えられるもので、黒檀、紫檀、伽羅、唐桐、唐桑など輸入品を主とした18種の銘木を組み合わせて作られている。天袋に李白と林和靖図、地袋には円窓内の山水図を描き、狩野探幽の筆とされている。付書院は室外に張り出さない形式で唐桑材の文机とその上の櫛形の窓からなる。櫛形窓の枠は黒柿、その上部の羽目板と袖壁はトチ材である。櫛形窓には明障子を立てる。文机の下は地袋ではなく吹き放しとし、奥に板戸を嵌める。
二の間は9畳大で、南西の1畳分を床とする。床脇の壁には木瓜形の窓を開ける。一の間・二の間境の欄間は幾何学的なデザインで「月の字崩し」ともいわれる。
御寝の間は新御殿の中央に位置する10畳大の部屋で、周囲の襖を閉め切れば外部の光が入らなくなる。北東の1畳分のみ畳を一段高くし、その上部、内法やや下に「御剣棚」という三角形平面の袋棚を設けている。棚の引戸には「捩り張り」と称す紗を張っている。この棚は御剣、すなわち天皇の守り刀を納める場所とされているが、後水尾院が行幸したときは譲位後だったため、実際には御剣は所持していなかった
御化粧の間、御衣紋の間、御手水の間は天皇の着替えや整髪などに用いるための部屋。御化粧の間には桂棚の裏にあたる位置に直線的デザインの棚があり、「裏桂棚」と称される。入側縁は一の間・二の間寄りを畳敷、庭寄りを杉板敷とし、これらの境には欅材の框を入れる。
新御殿や楽器の間では、簡素な中にも釘隠、襖の引手、板戸の引手などの細部に独創的なデザインが施されている。その例としては、水仙形の釘隠(新御殿長押)、「月」の字形の引手(新御殿襖)、春夏秋冬の花を盛った4種の手桶形引手(新御殿板戸)、折松葉形の引手(楽器の間襖)、市女笠形の引手(楽器の間板戸)などがある。
新御殿の建立時期は寛文2年(1662年)頃とするのが通説で、翌寛文3年(1663)の後水尾院の桂別業御幸に備え、御幸御殿として建立されたとするのが古くからの解釈。
古書院と中書院は 中秋の観月に最適の方位として 東から南に19度振れた当地に最も適切な配置がなされている。 
中書院の東は苔庭に変わり 芝庭とは一直線にいけ込んだ敷瓦でくっきりと区画され 建物に沿って直線的に折れ曲がる雨落ちの溝と その間を真っ直ぐに伸びる飛石が整然と並んでいる。雨落ちは両側に小石を並べて縁をとり その間に砂利が入れてある。 中書院の高い床下は催事の雑役に従う地下の人々の控えの場として使われ 苔庭に打たれた飛石は地下の人々の通路であった。
楽器の間。中書院の左端にあり広縁は手摺がめぐらされ ケヤキの一枚板で作られた腰掛があり 中書院と新御殿の取り合い部に位置する小建物で、南北棟の杮葺、屋根は南側が寄棟造、北側が切妻造。
楽器の間のほか、東側に縁座敷、南側に吹き放しの広縁がある。
楽器の間は3畳の小室で、南側に1間半、つまり部屋の長さと同じ幅の床を設ける。室の北西側に中庭に面した小窓を空けるほかは外部に面していない閉鎖的な部屋。
伝承では床に琵琶、琴などの楽器を置いたともいうが、桂離宮の古図にはこの室を「仕舞部屋」「御化粧の間」などと称していることから、後水尾上皇行幸時の着替えの間だったのではないかといわれている。
建物の南側、前述の床の裏は位置は吹き放し、板敷、1間幅の広縁であり、庭に面した造り付けの腰掛があり、広庭で行われた蹴鞠や弓や駒競べの見物席だった
中書院は南北棟の入母屋造、杮葺の建物で規模は4間半四方。間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。建物の東面から南面にかけて、半間幅、畳敷の「折曲り入側縁」をめぐらす。古書院が松の角柱を使用するのに対し、中書院の柱は杉の面皮柱。一の間は6畳で、西側に幅2間の大床があり矩折れに北側には違棚がある。違棚には桂離宮には珍しく、鍍金菊花文の飾金具が用いられている。昭和修理時の調査でこの違棚は他の建物からの転用であることが判明。二の間は8畳で、一の間・二の間境の欄間は木瓜形の窓を開ける。三の間は8畳で西側に1間幅の床があり、床の右側は2畳大の「小間」となる。ただし、三の間と小間の間には間仕切りはなく、一体の空間になっている。各室の襖や床、違棚の貼付壁には狩野派絵師による水墨画が描かれている。一の間の「山水図」が狩野探幽、二の間の「竹林七賢図」が狩野尚信、三の間の「雪中禽鳥図」が狩野安信 古書院の間取りは、大小8室。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は玄関口である「御輿寄」でその南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」。一の間・二の間の東には1間幅の広縁がある。縁は矩折れに一の間の南にも続くが、南側では幅が半間になる。広縁のさらに東には「月見台」と称する露台がある。
中書院、新御殿が杉の面皮柱を使用するのに対し、古書院は松の角柱を使用し、内法上は鴨居のみで長押を省略するなど、全体に地味な意匠になる。内法上の壁も中書院・新御殿が錆土を用いた色付壁とするのに対し、古書院は白の漆喰塗り壁である。この漆喰塗り壁は「パラリ壁」とも呼ばれ、天然醸造の消石灰を用いる。昭和の大修理に際しては、高知県から伝統製法の天然醸造による俵灰を取り寄せて用いた。
古書院の一の間は10畳大で、うち1畳を畳床とする。一の間の床柱のみは角柱でなく杉の面皮柱を用いる。床壁の貼付や襖は桐紋を雲母刷した唐紙。二の間は15畳。鑓の間は御輿寄の南に続く10畳間で室名は天井に鑓掛けがあることに由来。囲炉裏の間は10畳間でうち1畳分を囲炉裏とし、天井に煙出しを設ける。周囲は囲炉裏の飛び火を防ぐために襖でなく板戸を用いている。隣の御役席との境の板戸には彩色で諫鼓鶏(かんこどり)の図を描く。諫鼓とは中国の伝説で人民が天子に諫言をするときに打ち鳴らした太鼓のこと。諫鼓鶏とは諫鼓の上に鶏が止まっている、すなわち諫鼓を打つ必要がないような善政が行われていることの寓意る。この図は狩野永敬の筆とされる。縁座敷には崇伝による「桂亭記」の扁額が掛かる。これはもとは縁の小壁に掛かっていたもの。
古書院の建立年代は、昭和の大修理の際の調査により、中書院との接続部の部材に残る改造痕跡などから、当初、単独の建物として中書院は後から建て増しされたことが明らかとなった。「智仁親王御年暦」の記載などから下桂村が八条宮の所領となって間もない元和元年(1615)頃と推定される。
 
中書院の前の苔庭

古書院
屋根の軒下の雨雫があたるところに石が並べられている
古書院の広縁に上がる踏み石
古書院の二の間には池に面して幅2メートルの広縁があり 更に細竹を詰打ちにした露台が池に向かって突き出されて月見台となっている。
古書院の屋根
 智仁親王が中秋の名月を賞して詠まれた和歌
 仙人の蓬が島ねうつしきて 千々の秋みん池の月かな
 山の端の雲に光の矢たつと 見るがうちより出づる月かな
 月をこそ 親しみあかぬ思ふこと 言はむばかりの友と向ひて
 一枝を折る身ともかな月の中の 桂の里の住居成せば


奥に入口が見えるが古書院の入口である中門は別にある。
古書院前の船着場
船着場の石畳。写真の左端の松の根元にキリシタン灯籠(6/7、21/24)がある
書院群の一角にある月波楼
北側から見た古書院。南側から見たのと比べると別の建物のように見える
古書院隣の月波楼の蹲の灯籠(23/24)
古書院から月波楼は東から入り、写真のように手前が「口の間」、奥が「中の間(二の間)」を見て、南側(写真では左)にある入口に向かう。なおこの口の間のみ低い切妻屋根になっている。
松琴亭が冬向きの茶屋とされるのに対し、こちらは秋向きの茶屋とされる
二の間の北向きの破風には「月波楼」の額がかかっている。「月波楼」の名は白楽天の西湖詩にある句より採ったもの。「月点波心一顆珠」、月は波心に点じ一顆の珠。「歌月」の扁額は霊元上皇の宸筆と伝えられる
口の間から二の間と奥の一の間を覗き込む
口の間からの眺め。右から中が中島。奥が松翠亭。松の造形(モコモコ感)が素晴らしい
ズームアップするとこんな感じ
天の橋立
天橋立の橋

ここが入口、正面が口の間、その左が二の間。南側は柿葺の寄棟造り

1/50の模型。作られた方のHPはこちら。右下から反時計回りに中の間、二の間、一の間、膳組所、土間
入ってすぐ左の膳組所。ここだけ板敷

出隅(でずみ)に長炉、西側に低い横長の下地窓(したじまど)、北側(写真奥)隅「くど」と袋棚(この写真では見えない)が設けられている

外側から下地窓を見る
膳組所、左に袋棚が見える、左の入口の自然の木の柱も面白い
土間から北方向を見る。正面は一の間。
近くの御霊社にあった「渡海朱印船の絵馬」と称する額が掛かっているが、剥落著しく、図柄は定かでない。 一の間以外は化粧屋根裏として、竹垂木、竹木舞(垂木の上に横に渡し屋根裏板などを受ける細長い材)、葭簀(よしず)の野地(屋根を葺く材をのせる下地の板)からなる屋根裏をそのまま見せる。直線的な材が多い中で、棟木を支える束に1本だけ皮付の曲がった材を用いているのが目立つ。

一の間の外の景色
二の間は池に面した東面と西面に竹簀子の縁を設ける
二の間の化粧屋根裏
     
竹垂木、竹木舞、葭簀(よしず)の野地が良く分かる
秋の茶亭である月波楼から冬の茶亭である松琴亭を望む
市松の藍染の加賀奉書が良く見える
襖は京唐紙。京唐紙は、現在は唯一京都の「唐長」しか製作していない。昭和の修理時に襖の下張りから承応元年(1652)の年紀が発見され、この年が建立時期の上限となる。 一の間にのみ竹の竿縁の天井を張っている
月波楼の入口を西側から。手前の道は中門や御輿寄に続く
左の写真の奥の一の間から古書院の正門の御輿寄への道、ただし左の写真の道とは別の道で写真を撮った位置で参観者は行き止まり。奥が月波楼の土間
左の写真を撮ったところから古書院の方を見る、右の戸から古書院の正門の御輿寄へ続く。左に行き止まりを示す竹の柵がある。
右上の写真をアングルを変えたもの。参観者は下へ降りずに右の小山を回り込んで写真の奥にある御輿寄に進む
月波楼の南側にある蹲(6/7)と灯籠(22/24)。灯籠は松の影で見えにくい



御輿寄へ下る道
 
月波楼から小山を登り、下ったと右にある中門、左に御輿寄がある


 御輿寄の「真」の延段(切石のみを組み合わせた延段)。おさらいすると外腰掛の「行」の延段は切石と自然石を交えた延段、笑意軒の「草」の延段は自然石ばかりを固めた延段。灯籠(24/24)はキリシタン灯籠(7/7) 。関守石は日によって位置が変わるらしい

四段の幅広い石段の上に大きい沓脱石がある。一枚石の沓脱石には六人の沓が並ぶことから「六つの沓脱」と呼ばれている。御影石のたたき仕上げで 打ち水が溜まらないように上面を中高にしてある

左に蹲(7/7)が見える、中門から見ると右半分しか見えず、 御輿寄を見えないように工夫している。また左下の敷石が「く」の字型になっているのは輿を方向転換させるため
蹲(7/7)のアップと竹の樋。

中門を出て御輿寄の方向を振り返る(御輿寄は見えないようになっている)
昭和7年出版の「桂離宮御写真及実測図」から古書院と月波亭の配置図

右が北

赤線が参観路