2022/12/3-5 鎌倉・湘南・横浜

 娘夫婦が湘南国際マラソンに出るので、ベビーシッターを頼まれ当地訪問。以前はクリスマスの時期に神戸や横浜など港町を訪れていた。

 コロナの規制が緩んだこともあり車を4時間半走らせて到着。新東名の120㎞区間が浜松-御殿場と長くなったので早くなった。

覚園寺

1218年、北条義時の薬師如来信仰により建てられた大倉薬師堂が、覚園寺の始まり。1296年、北条貞時が、元寇の再来がないように願い、智海心慧律師を開山として、真言・天台・禅・浄土の四宗を学べる道場、覚園寺とした。


山門


受付で500円払って、地蔵堂、黒地蔵、やぐら、旧内海家、薬師堂の順で廻る。受付から奥は撮影禁止。

右の建物は愛染堂(あいぜんどう)。
元は覚園寺の近くにあった大楽寺(だいらくじ)のお堂。廃仏毀釈で覚園寺に移築された。赤く腕が6本ある愛染明王。「幸せになるためにおそれや不安を打ち消し、ひたすら前にすすむ力」 「情熱」をつかさどる。

右が黒地蔵。その右奥に地蔵堂(仏の中で大地の力を宿す地蔵菩薩を安置)。地蔵菩薩は子どもを育て護る仏とも信仰され、幼子を護るための魔よけ(神社の鳥居や昔の橋が朱色なのと同じ理由で)の朱色の帽子と前掛けをつけている。
 
正面奥の茅葺き屋根が薬師堂。覚園寺の本堂。開祖時の建物は焼失、 現在の建物は1354年に再建された建物が元となり、何度も修繕された。中央に本尊 薬師如来(心身ともに元気でありつづける、もし怪我や病気になったらそれとともに前にすすむ力をあたえる)。左右日光、月光菩薩を置き、昼夜を問わず元気であり続ける力を放出。その周囲には、薬師三尊を守護し、参拝者を勇気づける十二神将像がまつられてる。十二神将は干支の象徴で頭頂部に干支の動物がつけられている。
 

 内海家(うつみけ)
1706年に鎌倉で作られ、鎌倉の方(内海家)が暮らしていた農家。1981年に一度 解体され覚園寺境内に移築された。

やぐら
鎌倉は山が多く平地が少ないことから、鎌倉の武士や有力者の墓は、人を雇い山の斜面に 穴を掘らせそこに埋葬された。山の中には、177穴が確認されている。お堂の脇のやぐらは、儀式や修業のためのもの。

 

鎌倉文学館

旧前田侯爵家の別邸を鎌倉市が寄贈を受け、昭和60年(1985)以来、文学館として活用。国の登録有形文化財。

前田家の別邸は、明治23年頃、第15代当主の前田利嗣氏が土地を手に入れ、和風建築の館を建てたことに始まる。この館は明治25年、「涛(なみ)」を「聴」く「聴涛山荘」と命名された。

明治43年、「聴涛山荘」は類焼で焼失、洋風に再建される。大正12年、関東大震災で倒壊し、後に建て直される。新しい別邸は、鎌倉時代、長楽寺があったことから「長楽山荘」と名付けられた。

さらに、第16代当主の前田利為氏が改築し、昭和11年、今に残る洋館が完成。第二次世界大戦後、デンマーク公使や佐藤栄作元首相が別邸を借り、別荘として使用していた。

佐藤氏は別邸の近くに住んでいた川端康成と交流を深めた。その時代に、鎌倉文士の小林秀雄や永井龍男もここを訪れている。さらに、三島由紀夫は執筆のために別邸を取材し、

小説「春の雪」に記した。

 昭和51年、鎌倉市内の有志により、鎌倉の文学を研究する「鎌倉文学史話会」が発足。昭和56年、鎌倉市は文学館の建設の検討をはじめ、作家の里見弴や、今日出海、小林秀雄、永井龍男、

清水基吉らによる「文学資料館建設懇話会」を発足。昭和58年、旧前田侯爵家別邸が鎌倉市へ寄贈、昭和60年10月31日開館。初代館長の永井龍男は、「文学、文学と肩ひじをはらずに来ていただいて、

興味をひいたら、ついでに展示物を見ていただき、研究というと大げさだが、文学というものをご自分の生活に消化して身につける。これが文学の味わいの根本だと思う。」と挨拶した。


文学館入口にいたかまくら猫1号。この奥は甘縄神社で鎌倉幕府の御家人安達氏の屋敷でもあった。安達氏は北条時頼の母である松下禅尼の実家で、第八代執権北条時宗はこの安達館で生まれた。

入口の門までのアプローチ。左は長楽寺跡。長楽寺は北条政子が源頼朝の菩提を弔うため、嘉禄元年(1225年)に創建。元弘の乱で焼失し、大町の善導寺に統合されて安養院長楽寺となった。

アプローチの脇にいた かまくらリス1号

木の反対側にいた かまくらリス2号

入口。ここで入場料を払う

大海(おほうみ)の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも 。作者の源実朝は、幕府を開いた源頼朝の次男で、建久3年(1192年)に生まれ、建保7年(1219年)に死去。 兄の頼家が追放され12歳という若さで第3代将軍になるものの、28歳のときに甥の公暁くぎょうにより暗殺された。 藤原定家に和歌を学んだ歌人としても知られ、家集に『金槐和歌集』がある。


招鶴洞

建物は ハーフティンバー様式。北方ヨーロッパの木造建築の技法。半木骨造とも呼ばれ、15世紀から17世紀、英国の住宅に多用された。 名称の由来は、壁と木造の部分が半々となる(半分木造の意味)ためとも、割られた材木を外部に見せるためとも言われる。柱、梁、斜材(筋違)、間柱、窓台等の軸組は隠されず装飾材としての役目を兼ね、軸組の間を漆喰や煉瓦、石などで仕上げた。

2階のテラスから。ベンチがある。

森戸海岸沖のヨット

テラスの天井の水抜き穴

ブロックの装飾

建物はスパニッシュ・ミッション様式でもあり、緩い勾配の寄棟屋根で庇が張り出しているところが特徴。教会建築に取り入れられるバロック風の切妻壁や、赤い屋根瓦と垂木の端を露出させている。外観はシンメトリー(左右対称)を原則とし、中央部分にペディメント(切妻屋根 の、妻側屋根下部と水平材に囲まれた 三角形 の部分)を施したポーチコ(柱廊玄関) がある。

一番低いところにあるバラ園

プリンセスアイコ
クリスチャン・ディオール
鎌倉 荒城の月 羽衣
由比小町

文芸館から入口の間にあるトンネル

原付のご当地ナンバー

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