赤山禅院
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修学院離宮の生垣を北へ進む |
鳥居 |
山門 |
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山門脇の尚歯会発祥の地の案内。尚歯会とは,年歯の高い人を尚(たっと)ぶ会のことで,詩歌管弦の宴会を行う。貞観19(877)年3月18日,大納言南淵年名(808~77)の山荘において,大江音人(811~77)等を招き我が国はじめての尚歯会が行われた。この石標は南淵年名の山荘跡を示すもの。
洋学者の渡辺崋山,高野長英もメンバーだった
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本堂前の階段 |
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本堂を望む |
鬼門除けの猿 |
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五百羅漢 |
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修学院離宮に行く前の1か月前に読んだ梅原猛の「梅原猛の仏教の授業
法然・親鸞・一遍」では津市高田本山にある存覚作の「親鸞聖人正明伝」を最も評価している。その中にこの赤門禅院がでている。、 親鸞が全身全霊修行に打ち込んでも、真っ暗な心の解決が見えて来なかった。26歳の時、京都の慈鎮和尚を尋ね。指南を受け、比叡山への帰り、延暦寺の別院たる赤山明神(赤山禅院)の前を通りかかった時に、美しい女性に声をかけられた。 「私には深い悩みがございます。どうか山にお連れください」と頼む女性。しかし、比叡山は、女人禁制、女人結界の地なるがゆえに、聖人はその申し出を断った。ところが、女性の言うことに、聖人は大いに驚かされた。「伝教大師ほどの方が『一切衆生悉有仏性』の経文をご存じなかったのでしょうか。すべての者に仏性があると、お釈迦さまはおっしゃっているではありませんか。それなのに、このお山の仏教は、なぜ女を差別するのでしょうか。穢れた女が入ると山が穢れると言われるならば、すでに鳥や獣のメスでこの山は穢れています。鳥や獣のメスがいる山へ、なぜ人間のメスだけが、入ってはならないのでしょうか。お願いでございます。どうか、いつの日か、すべての人の救われる真実の仏教を明らかにしてくださいませ」 こう言い残して去った女性のことが、深く聖人の心に焼きついた。 |
北野天満宮と大報恩寺
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五山送り火の「妙法の妙」 |
北野天満宮前のお地蔵さん |
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お昼は普段は行列でなかなか入れない「とようけ茶屋」へ |
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左上から「東寺湯葉の葛あんかけ」、「京野菜と生湯葉油揚げの煮物」、「四色生湯葉、京野菜の天ぷら、田楽みそがけ」2列目左から「丹波黒豆生湯葉煮付」、「甘湯葉醤油煮、実山椒付け」、「焼小巻湯葉の吸い物」3列目左から「御飯」、「刻みすぐき菜の漬け物」、「刺身湯葉」
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デザートは「麗豆菓」。大豆餡の道明寺饅頭を豆乳ゼリーで包んだもの。これ税別1780円。」「![]() |
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北野天満宮は左近の松・右近の梅になっている。松・梅は祭神・菅原道真が大宰府に左遷される際、桜とともに屋敷内で別れを惜しんだと言われている。桜は悲しみのあまりに枯れた。松は菅原道真の後を追って飛んだが、途中で力尽き、摂津国八部郡板宿(兵庫県神戸市須磨区板宿町)に根を下ろし、飛松伝説と言われるようになった。梅は松と同様に菅原道真の後を追って飛び、一晩の内に大宰府に降り立ったことから飛梅伝説と言われている。 |
北野天満宮を出て千本釈迦堂へ |
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大報恩寺は、鎌倉時代の承久3年(1221)に義空が開いた真言宗智山派の仏教寺院で、千本釈迦堂とも称される。安貞元年(1227)に建立された本堂は、幾多の戦火を免れ、800年近く経った今も当時のまま残る京都市内最古の木造建造物として国宝に指定されている。
山門 |
本堂 |
本堂の柱の切り傷。応仁の乱のもの。 |
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本堂の棟梁を努めた大工・長井飛騨守高次は、本堂建築の際、重要な柱を誤って短く切り落としてしまった。その柱は代わりのきかない物だったため、高次は困り果てた。 その様子を見かねた妻の阿亀おかめが「他の柱も短く切り、枡組ますぐみで補えば大丈夫よ。」とアドバイスを行い、この結果、本堂は無事に完成した。阿亀は「女の知恵で建築したとなれば夫の恥となる」と考え、上棟式の前に自ら命を絶ってしまう。その後千本釈迦堂は「おかめ信仰」の発祥地となり、「縁結び・夫婦円満」や「災難厄除」などのご利益があるとされている。 |
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えんま堂と千本通りかいわい
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閻魔堂へ |
百人一首の歌人として知られる小野篁卿(802~853)は、この世とあの世を行き来する神通力を有し、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕えたとの伝説を残している。篁卿は、閻魔法王より現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法で、後に我が国の伝統習慣である「盂蘭盆会(お盆行事)」へと融合発展する法儀「精霊迎えの法」を授かったた。その根本道場として、朱雀大路(現・千本通り)の北側に篁卿自ら閻魔法王の姿を刻み建立した祠がこのゑんま堂の開基。 この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁卿が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土している。ゑんま堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれている。 篁卿の後、寛仁元年(1017)、藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覚上人が、ここを「諸人化導引接仏道」の道場とすべく「光明山歓 喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山した。「引接」とは「引導」と同義語です。 |
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3像は撮影禁止。 |
建物の奥が塔婆を流すところ |
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塔婆は300円で書いてもらえる。これは初盆を迎えるいとこのもの |
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右がいとこで、左が父の塔婆 |
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鐘つき堂 |
感染防止のため、流した塔婆の数だけ鐘をついてもらう |
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えんま堂の通りのPONGEE‛S TABLEでかき氷。はやりのふわふわ氷を初めて食べた。 |
千本玉壽軒。 |
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これを買いに来たが、もう販売終了。![]() |
店内 |
千本通り沿いの着色されたお地蔵さん |