故宮博物院 その2
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翠玉白菜。 清明上河図、肉形石と合わせて国立故宮博物院の三大至宝
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原石は、半分が白、半分が緑のヒスイ輝石
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本来は盆景の一部として、四枚の花弁を象った琺瑯の小さな植木鉢の上に、四角い木製の支持具によってまっすぐ立った姿であった。ところが、1925年に故宮博物院が開館する際、当時の展示担当者はこのような組み合わせでは白菜の特質を壊してしまうと考え、また直立する白菜の姿にも違和感を感じたため、簡易な木製の台をわざわざ新規に作らせて現在のような鑑賞形態となった |
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5大宝物 |
マラカイトの石にターコイズを散りばめた動物の形をしたワイン容器 |
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星のようなものは金 |
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網のように穴が空いた容器 |
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秦時代の光緒26年12月26日外国勢力との平和条約の交渉に朝廷の代表の王子清と李鴻章に与えられた指示を詳述したもの |
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秦時代(BC221-207)のはんこ。「喜」おめでたい言葉の印は吉語璽といい、これもその1つ |
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名まえ印 冷+喜に心(意味は同じ喜ぶ) |
名前印 輔瓔 |
名まえ印 倉善 |
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西周(bc9c~BC771)のZhui |
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西周王朝の青銅器。古代中国の青銅の碑文の中で最も長い32行に配列された497文字の碑文がある |
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代の道光二十三年(1843年)前後に陝西省岐山県で出土し、幾度も持ち主を替えて秘蔵された末、中央博物館に寄贈され、故宮の文物の南遷に伴って、海を越え台湾に渡った。
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銘文の内容は次のとおり |
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宗周鐘「宗周鐘」は「鐘」、「胡鐘」とも呼ばれ、西周の厲王が製作した祖先の祭祀用の楽器。 |
鐘本体の両面には合計三十六本の長い乳丁が突き出しており、筒状になった柄部(甬)はまっすぐに伸びる。銘文は百二十二文字で、鐘本体の中央から読み始め、左に進み、背面の右側に続く。銘文の内容は次のとおり。 厲王は文王、武王の徳に従って、四域の領土を固めることに勤め励んだ。南方の濮の国の君主が大胆にも周の領土をたびたび侵犯したため、厲王は軍を率いて親征し、濮の国の都まで追撃した。そこで濮の国の君主は使者を遣わして臣服の意思を示し、同時に南方と東方の二十六カ国の代表もこれに随行して拝謁した。厲王は上帝と百神の加護に感謝し、この「宗周宝鐘」を製作した。もって勲功を記し、宗廟で奏すとともに、先王が子孫に福を授け、四方の太平が永遠に保たれんことを祈念する。 宗周鐘は清代初期にはすでに宮中に所蔵されており、出土した時期についての記載は見つかっていない。1978年に陝西省の扶風県斉村で出土した百二十四文字の銘文が記された「簋(き)」も、やはり厲王・胡が鋳造した礼器であり、「宗周宝鐘」の傍証とすることができる。 |
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| 周王朝の始祖文王が商を分割し、武王が殷の紂を討ち、殷を滅ぼした。周公は、周人が宗法制度と諸侯を分封する制度を樹立し、新しい王朝を築いた。《詩経》に「周雖舊邦,其命維新」(周は旧邦なりと雖も其の命、維(こ)れ新たなり)とあり、銅器上にも「維新」の気概が現れている。 西周早期(武、成、康、昭の四王)の銅器の的造型と文様はその多くが殷晩期のなごりをとどめているが、次第に変化を遂げ、周文化の特色の形や文様(例えば方座簋)が増えていった。礼制も徐々に成熟し、玉を用いて紀錄した金文も完璧になった。 |
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西周中期の水器 |
西周の中期(穆、共、懿、孝、夷の五王)になると、銅器の風格も一転し、新たな器類、造型、文飾が次々に現れた。爵、斝、觚等の酒器にかわって簋、簠、盨、鋪等の食器が増え、食を重んじる」周の治国新使命を象徴している。新しいタイプの尾を大きく巻いた鳳鳥文と瓦文などの華やかな文様も登場し、銘文も長くなり、その格式と書風も早期の物とは大きくいに異なる。
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ちゃんとしっぽがある |
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動物の紋様 |
鳥の紋様 |
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2つの龍の紋様の食器 |
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ハートの形が見える |
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西周晩期あるいは春秋初期の兜。てっぺんの馬が可愛い。 |
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獣の紋様の斧の刃 |