尾道から鞆の浦へ
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尾道駅北口 13:21 |
1998/08に川崎重工で製造されたEF210-5 |
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尾道猫3号 |
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林芙美子の碑 |
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尾道市立美術館。林芙美子の碑の前から |
橋本渡船乗り場。奥は向島ドック 13:28 |
新尾道大橋。橋長546m。塔高77m |
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中央支間長215mの斜張橋。我が国の本格的な斜張橋の先駆けである尾道大橋(昭和43年供用)の西55mに架かるため、中央支間長を同じにし、橋梁形式は尾道大橋と同様の斜張橋を選定。 |
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左は尾道造船本社社屋 1943年4月1日設立 2022売上386億円 |
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アリストぬまくま尾道造船から車で30分 |
中右のクレーンは常石造船(1917年1月創業。2023/12売上2,360億円)のもの |
山の向こうが鞆の浦 |
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奥が鞆の浦中心部 14:20 |
アサヒタクシー 2020年10月にNHKのサラメシにも出演 |
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左から、写字官(外交文書を取り仕切る承文院、王の御製·御筆 などを奉安し編纂·刊行する奎章閣、奎章閣の姉妹機関として、經籍の印刷などを仕切る校書館に所属する技術職の吏属。彼らは文書を正写する仕事を担当し、また中国や日本使節団にも加わって修行した) 。国書。軍官。 |
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通?、従事(正使・副使と共に三使と称され、使行日程を記録して報告し、一行の監察と隊列の点検などを担当) 、吸唱、使合、砲手、 |
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1748年(寛延元年・英祖24年)には第10次通信使の正使である洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた書を残し、それを額にしたもの。 |
第8回朝鮮通信使が正徳元年(1711)正使趙泰億(チョ・テオク)が従事官李邦彦(イ・バンオン)に書かさせたものを100年後に福山藩主阿部正精が木版にさせた。 |
趙泰億は徳川6代将軍家宣の襲封祝賀のため来日した。 |
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JEFのタンカー。船名分からず |
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本堂は平安時代に第62代村上天皇(大鏡にある鶯宿梅(おうしゅくばい)の逸話で有名)の勅願寺として950年ごろに空也上人(六波羅蜜寺の仏像を吹き出す像で有名)が創建 |
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14:52 | |
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商家。江戸末期のもの |
入江保命酒本店。保命酒の起源は約350年前、万治2年。生みの親は大阪の医師・中村吉兵衞。すでに醸造業が栄えていた鞆の浦のお酒と、吉兵衞の漢方の知識が合わさって、保命酒が生まれた。やがて保命酒は、江戸幕府より備後の特産品として庇護され、全国に知れわたった。上の地図の黄色の① |
焼酎、もち米、麹の3つに十三種類の生薬を漬け込むことから、保命酒は十六味地黄保命酒(十六味保命酒)とも呼ばれる。 |
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鞆肥後屋 江戸時代に廻船問屋として商いを行っており、現在は土産物屋。 上の地図のピンクの⑦ |
八田保命酒舗(赤たる)生薬の味を前面に出し、まさに「薬酒」といった風味。 「赤たる本格保命酒」1800ml/3450円 900ml/1800円 600ml/1300円 300ml/800円 上の地図の黄色の⑤ |
入江豊三郎本店 酒瓶のラベルや梱包が個性的。徳利やコモ包みなどもある。上の地図の② 「十六味保命酒」(ガラス瓶入り)900ml/1500円他 「トモエ印本味醂(みりん)」600ml/500円 「保命酒のど飴」約80g/200円 「保命酒ジュレ」3個入袋/300円 |
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左2つめから ①甑(大型せいろ)おき 甑に洗米して一晩おいたうるち米を入れる。 ②蒸米 米を蒸す ③種付け 蒸された米をからし台に移し麹の種を植え付ける ④切り返し 麹を機械の中で48時間混ぜる ⑤出麹 からし台に戻す |
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中ほどの写真は水戸黄門(佐野浅夫)の第27話(2000年9月18日放送)で保命酒がテーマになった時のもの |
鞆の浦の大衆食堂といったらここ。肉料理や魚料理の定食から丼のメニューまで地元の味が味わえる。 |
桝屋清右衛門。江戸時代、宿泊や生活用品の調達、積荷の売買などを行う廻船問屋を営んでいた。その屋根裏部屋には「坂本龍馬が宿泊した」という伝承があったが、長年その場所は確認されていなかった。 1989年、地元有志が天井を調査したところ、1カ所だけ天井板が外れ、当時のまま手つかずの状態で残されていた隠れ部屋を発見。 2010年より整備を進め、2011年4月に一般公開をはじめた。 |
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桝屋清右衛門宅に龍馬が泊まったという証は、龍馬と紀州藩側の賠償交渉の経過が記された「備後鞆津応接筆記」という文書に残る。 そこには坂本龍馬が「才谷梅太郎」という名前で交渉に臨んだこと、石井町にある桝屋清右衛門宅に宿泊したことなどが記される。 宿泊したのは、元号が明治に変わる前年の1867年(慶応3年)4月23日から4日間。京都で殺害される約7カ月前。 |
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向かいの仙酔島の御前山。東屋の前の碑は行啓記念碑元帥伯爵東郷平八郎謹書 大正15年に、昭和天皇が皇太子時代に、ここから鯛網をご覧になられたらしい。 |
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弁天島 |
竹下陶子の句碑。青芦会設立者。「みんなでたのしく伝統俳句を学ぶ」を目的として、5支部組織で構成され福山を中心に活動している俳句グループです。1988(昭和63)年3月に設立。 |
上は福禅寺 |
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むろの木歌碑。「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木はとこ世にあれど見し人ぞなき」 万葉秀歌といわれるこの歌は、天平2年(730年)大伴旅人が太宰府の役人の任期を終え、都へ帰る途中、鞆の浦へ立ち寄った時の歌で、亡き妻をしのぶ気持ちを歌に乗せている。 むろの木は、ヒノキ科の常緑低木の杜松(ねず)か、あるいは這杜松(はいねず)のこと。変わることのない自然と、はかない人間の命の対比のあざやかさが、旅人の悲しみをきわだたせている。 |
15:27 |
鞆の浦から福山市街地に入るところの芦田川にかかる芦田川大橋 |
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この付近の芦田川は,広島アジア大会でも使用された国際A級の漕艇場となっているため、コース幅確保のため径間を広くする必要があった。 15:36 |
ご当地ナンバー |
| 20:30帰宅。 | ||