津和野西周旧居から長門市金子みすゞ記念館


森鴎外旧宅から南西に200mぐらいのところにある西周の旧居。親同士がいとこだった。
津和野藩の御典医の家柄で幼名、経太郎。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いの森鴎外は西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる。ただし鴎外の父、祖父は養子で血縁ではない。
天保12年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、ライデン大学で法学、カント哲学、経済学、国際法などを学ぶ 慶応元年(1865年)帰国後、目付に就任し徳川慶喜の側近として活動。
王政復古を経た慶応4年(1868)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。明治3年(1870年)、新政府に乞われ兵部省に出仕、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係するなど、軍政の整備とその精神の確立に努め、文部省・宮内省・元老院などの公務も兼任。
明治6年(1873)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行するなど啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力。
東京学士会院第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めた。
明治17年(1884)頃から右半身が麻痺しはじめ、明治19年(1886)健康上の理由で公職を辞職。た。

西洋語の「philosophy」を音訳でなく翻訳語(和製漢語)として「哲学」という言葉を創ったほか、「藝術(芸術)」「理性」「科學(科学)」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など多くの哲学・科学関係の言葉は西の考案した訳語である。
漢字の熟語を多数作った一方ではかな漢字廃止論を唱え、明治7年(1874年)、『明六雑誌』創刊号に、『洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論』を掲載。

勉強部屋だった土蔵

奥に西周の旧居が見える写真を撮っている場所の後ろにNHKラジオの電波塔がある。中やや左の赤い建物は太皷谷稲成神社でその横から津和野城に登るリフト乗り場がある。

西周旧居近くの橋(新橋)。正面奥の白い建物は高砂酒造

左の写真のつきあたりまで来たところ高砂酒造資料館の案内板が見える


県道13号線(萩津和野線 つわぶき街道)。つわぶき高原パーク(写真右の駐車場)の案内板

つわぶき高原パークから3.5㎞で国道315号線(山口県周南市から萩市)との供用区間に山口市阿東嘉年下というところで入る。写真は国道に入ったところ

国道315号線萩市片俣あたり。この先の道の駅 うり坊の郷 katamata やまぐち食彩の館のところで国道315号線と別れる。

萩市高砂下。この辺はガードレールが黄色い
萩市吉部下の鍛冶屋という交差点で県道11号線に入り萩へ 桜が咲いていた(場所不明)
萩から長門までは191号線(山陰自動車道併用)

長門市に入る。仙崎交差点あたり。奥の緑色のものは秋芳鉱業のベルトコンベア。16.5㎞ある。秋芳鉱業は1988年に住友大阪セメントの子会社として創業、石灰石を美祢市秋芳町別府にある採掘現場から長門市仙崎の事業所にある港までベルトコンベヤーで運ぶ。運ぶ量は約2万トン/日。 

仙崎の金子みすゞの案内

港にある道の駅センザキッチン。みすゞ通りの案内板も見える
山口漁協 長門統轄支店。奥さんがここがファーストペンギンの実話の舞台といっていたが隣の萩が正しい
みすゞの生家金子文栄堂

金子 みすゞ(本名:金子 テル、1903年(明治36年)411-1930年(昭和5年)310日)

郡立深川高等女学校(現:山口県立大津緑洋高等学校)卒業

父は、妻の妹の嫁ぎ先である下関の書店「上山文英堂」の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)210日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死を遂げる。

叔母の死後、叔母の夫とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。

1923(大正12)、「金子みすゞ」というペンネームで童謡を書き始め、雑誌『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』に投稿。

1926(大正15)に「童謡詩人会」への入会を認められる。会員は西條八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など。女性では与謝野晶子と金子みすヾの二人だけだった。

 1926年(大正15年)に叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格で、酒は飲めないが女癖のある芝居好きの宮本啓喜と結婚し、娘を1人もうける。

夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇され、女性問題を原因に上山文英堂を追われる。みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、みすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。

1927年に夫からうつされた淋病を発病。1928年には夫から創作や手紙のやり取りを禁じられる。1929年頃には病状が悪化し床に臥せることが多くなる。1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。
みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。同年310日、みすゞは服毒自殺を遂げ、享年28(数え年)、26年の短い生涯を閉じた。
弟、上山雅輔は回想録「年記」に「芥川龍之介の自殺が決定的な要因となった」と書いている。

店の中から

みすゞの母の実家の下関の上山文栄堂の写真

昔の店内

店の二階

弟の上山 雅輔コーナー

上山 雅輔(かみやま がすけ、本名:上山 正祐[うえやま まさすけ]、1905年(明治38年2月23日-1989年(平成元年)4月11日。
1906年2月10日、雅輔が1歳のときに清国で父が不慮の死をとげる。家計が逼迫したため、1907年1月19日、母の妹(雅輔にとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出される。叔母の死後、雅輔の養父・上山松蔵とみすゞの母が再婚したため、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。
家業を継ぐために下関商業学校に通ったが、内心では音楽家に憧れていた。長兄の堅助も含め、文芸好きの兄弟3人は仲が良く、サロンを形成していた。
1923年(大正12年)、下関商業学校を卒業。上京するが、半年で帰郷する。
1925年(大正14年)に徴兵検査に合格。そのときに初めて松蔵が養父であったことを知った。
1928年(昭和3年)に再上京し、菊池寛が経営する文藝春秋社の「映画時代」編集部に入る。入社にあたっては、姉みすゞが古川ロッパに送った手紙が後押しとなった。
1930年(昭和5年)3月、姉みすゞを亡くす。 その後、「映画時代」で得た人脈から喜劇作家に転向し、1933年(昭和8年)創立の古川ロッパ一座「笑の王国」の文芸演出部長として活躍する。
轟夕起子が1943年(昭和18年)に歌ったヒット曲「お使ひは自轉車に乗つて」の作詞もしている。
戦後は、宮田洋容・布地由起江の漫才台本も手掛けた。
1949年(昭和24年)4月、妻・深山容子(本名:上山五百子)、娘・八重垣緑(本名:上山七重)と共に劇団若草を立ち上げる。
多忙な劇団経営の傍ら、姉の遺稿を世に残そうと努力し、児童文学者の矢崎節夫らの協力もあり、遂に1984年(昭和59年、遺稿集が出版され、世にみすゞの存在を知らしめる事となった。
劇団若草からは、石橋蓮司、吉岡秀隆、桃井かおり、飯塚雅弓など数多くの俳優・声優を輩出した。
1989年(平成元年)4月11日、東京の自宅にて死去。享年84。

書店で使っていた書棚

店の奥が生家の記念館、撮影禁止

店の奥の井戸
     

店の奥のおくどさん

地元の商工会の青年部が、希望者の顔写真を12万人集めて、金子みすゞの自画像のモザイクアートを造った。高さ31m、横幅42mの巨大なオブジェは、ギネス認定を受けた。パーツは違う顔ばかりだが、みんな違って、みんないい顔で、みすゞ像に。これは縮小版。

確かに顔になっている

記念館の前の通り

仙崎公民館。

漁港。右は魚市場。秋はシイラとアオリイカがあがる

イカ釣り船?

秋芳鉱業の石灰を運ぶ船

萩市内に戻る。条例で看板が茶色になっている



このコスモスも