萩城址から菊屋、高杉晋作生誕地


まず萩城址から。慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城。
本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなり、本丸には高さ14.4mの五層の天守があったが明治7年に天守、矢倉などの建物は全て解体。
旧本丸跡に歴代藩主を祀る志都岐山神社が創建され、総面積約20万㎡の境内が指月公園として整備された。

この先のところで中に入らず引き返す
 

萩焼の店「萩城窯」

窯元。値段もお手軽だったが気に入ったのが無かった。

毛利輝元公銅像 毛利元就の孫にあたる。
生誕1553年2月4日。出生地は安芸国。輝元は慶長9年1604年に日本海に面した長門国の萩に築城。
関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった、長州藩の藩祖。

右は塩矢倉跡。武器をしまっていた。この辺には13の矢倉があった

スマイル貸自転車萩城指月公園営業所

萩猫1号がお留守番

萩城方向を振り返る

萩ユースホステル。ドミトリー2916円個室3768円朝食540円夕食972円

ユースホステルの向いが遊覧船乗り場。40分1200円
萩八景とは、貞享2年(1685)3代藩主毛利吉就が、お抱え絵師雲谷等璠、歌人安部春貞、学者山田原欽の3人に命じて、新しく萩城下の佳景を選ばせたもの 。
橋本川河口が「倉江の帰帆」「玉江の秋月」
玉江橋を過ぎて旧田中別邸のあたり「桜江の暮雪」。
橋本川右岸の桜並木「小松江の晩鐘」
更に上流が「中津江の夜雨」「上津江の晴嵐」「下津江の落雁」「鶴江の夕照」
船は小松江の晩鐘で折り返すらしい。

堀内武家屋敷地区
堀内は旧萩城三の丸にあたり、毛利輝元が慶長13年(1608)に指月山に城を築き、町割をおこなったことに始まる。
保存地区は堀内のほぼ全域で、藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の武家屋敷が建ち並んでいた。
近世城下町の武家屋敷としての地割が今もよく残り、土塀越しに見える夏みかんとともに歴史的風致を形成。
現在も、地区内には永代家老の益田家の物見矢倉など10数棟の武家屋敷が残る。
昭和51年、全国で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、伝統的建造物に特定された土塀や石垣は約450件を数え、総延長は約3.5kmに及ぶ。

旅館北門屋敷。昨夕間違ってここにチェックインしようとした

北門屋敷の北向いにある萩セミナーハウス。宿泊もできる一般向研修施設でNPOまちじゅう博物館が運営 。この門は旧毛利家別邸表門でもある。

夏みかん

雅萩堂

萩宝堂。有名な作家の作品を販売

田中義一銅像
長州藩藩士の子に生れ,1886年陸軍士官学校,92年陸軍大学校卒業。日清戦争に従軍。 1904年日露戦争では大本営参謀,満州軍参謀。その際に張作霖を助命し,彼と密接な関係を結んだ。
06年帝国国防方針の原案を作成。10年少将,11年軍務局長。15年中将,参謀次長となり,16年満蒙独立運動を推進したが失敗。
18年には陸相としてシベリア出兵を遂行。 20年男爵の爵位を受け,21年大将,22年軍事参議官を経て 27年首相兼外相となる。
対中国積極政策 (いわゆる田中外交 ) をとったが,28年の第2次山東出兵により激しい排日運動が起き,また張作霖を利用する満蒙分離政策は,張の爆殺で破綻。この満州某重大事件や不戦条約問題などを追求され,29年総辞職,同年急逝。

右奥の建物は菊屋家。毛利藩の御用商人。 屋敷は藩の賓客をもてなす迎賓館のような役割を担った。 江戸初期の建築で、現存する大型町家としては最古の部類に属し、400年の歴史がある。
菊屋家は、大内氏時代には武士でしたが、毛利輝元公萩城築城の際には有力町人として萩に入り、 町づくりに尽力。主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国指定重要文化財に指定され、 約2000坪の敷地の約3分の1が公開されている。

御成道が北で前の写真はこの方向から。

菊屋横丁。右は菊屋。

ずっと菊屋の塀が続く。向いの通りの奥に高杉晋作の誕生地がある

写真を撮った手前の菊屋の塀の一角に田中義一の生誕地の記念碑がある。右手前が次の写真

高杉晋作生誕地

入場料200円

ご誕生 1839/8/20 中級藩士(大組200石)高杉小忠太春樹の長男と
    して誕生。元服して春風という名に。晋作は通称
金毘羅神社参詣  近所の金毘羅神社にもの忘れしないように参拝。
         大きな天狗の面を見せて物怖しないようにもした
松下村塾入門   1857 19歳の時。
         入塾後久坂玄瑞と双璧といわれるようになった
小姓役  若殿毛利定広の小姓(御櫛役)に1861年23歳
剃髪   25歳でいろんな思いがかなわず世捨て坊主となる。
     東行と号した
奇兵隊結成 藩主から山口の政事堂に呼び出され馬関攘夷戦(英仏
      蘭米の17隻と戦う)で馬関(下関)の防衛を一任され
      士農工商を問わず志あるものを募り隊を結成
      1863/6/16 25歳

山吹の花が大きい
入獄   藩の規則を犯し京都に行ったことで脱藩罪で萩の野山獄に
止戦講和 自宅謹慎中に政事堂に呼び戻され馬関攘夷戦の代表として
     英国公使と談判し有利な和議を結ぶ 1864/8/4 26歳
亡命   藩内の尊王攘夷派への粛清で福岡に逃れる 1864/11/2




四境戦争(幕長戦争)終わりに結核で下関で療養するも死する。墓は下関吉田町清水山にある。1867/4/14 27歳8か月
   

父小忠太(1814-1891)母ミチ(1819-1897)

遺品

手配書 西郷吉之助、高杉晋作、平野次郎
平野次郎は攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。
文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋騒動で失敗し投獄される。出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。
大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。

妻 雅子(1845-1922)と長男 東一(1864-1913)外交官を務めた

産湯の井戸

東行先生産湯之井 見学はここまでぢゃ戻って受付左へ行ってくれろ

玄関

近くの晋作広場にある高杉晋作立志像。萩城を向いて立っている

晋作広場