木戸孝允旧宅
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菊屋横丁の西の伊勢谷横丁 |
菊屋の東門のにある表札。呉服町1の1。写真を撮った時は大きな商家で名前は菊屋というんだなという感じ |
御成道にもどって。萩ぷりん亭。左は萩のクラフトビールMURATAの直営店。 |
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伊勢屋横丁の西の江戸屋横丁に入る |
木戸孝允の旧宅。生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした木造瓦葺の2階建 木戸孝允は、天保4年(1833)、萩藩医・和田昌景の長男として生まれ、後に藩士・桂家の養子となり“桂小五郎”の名でも知られる。 藩校明倫館に通い吉田松陰の兵学門下となり、文久2年(1862)藩の要職に就き京へと出て国事に奔走。慶応元(1865)年、藩命により姓を“木戸”と改め、翌年、坂本竜馬の仲介のもと薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通らと“薩長同盟”を結び明治維新に尽力。 維新後は、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などを推進。 明治10(1877)年、西南の役の途中で病死。享年45歳。 |
井戸 |
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ヒメジ。11月から3月が旬とあるが晩御飯には出てこなかった |
視力検査の表があるのはここでも眼科と外科を診ていたことを示すもの。間取り図の中上の4畳半 |
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2畳の内玄関 3畳の表玄関 | |
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間取り図の右下の公用の間、8畳。「今日」の額は7、8歳の時に木戸孝允が書いたもの |
南側の庭 |
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仏間とあるが間取り図では茶の間 |
間取り図で左下の誕生の間4.5畳。床の間にはは和田家と木戸家の系図がある |
誕生の間から庭を見る |
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公用の間の縁側から庭を見る。南東方向 |
こちらは南西方向 |
公用の間にある7、8歳の時にかいた書 |
![]() 書の説明 |
別の部屋にある書 |
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たぶん誕生の間にあった桁の落書き |
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木戸 正二郎 文久元年8月12日(1861/9/16)-明治17年(1884/10/28) 来原良蔵の次男。母は木戸孝允の妹・治子で木戸孝允の養嗣子。 慶応2年5月18日、伯父である木戸寬治(孝允・桂小五郎)の養子となり、桂正二郎と称す。 桂家では2年前の禁門の変で養子の勝三郎を失っていた。 明治4年2月23日、大蔵省出仕、造幣寮事務修業のため、豊原百太郎、岡村篤馬、児玉勝之助・山口武とイギリス留学を命じられ、6月5日横浜港出帆。 明治8年5月1日、イギリスから帰国。同年11月17日、実母の治子死去。 明治9年9月、帰国後に入学した第一大学区東京英語学校下等科卒業 明治10年5月26日、養父・孝允が京都にて病没、8月7日、16歳の正二郎が家督相続。 明治11年5月21日、華族に列す。 明治13年3月17日、ドイツ留学を許可されベルリンの兵学校で学ぶ。 明治17年10月28日、帰国途中、セイロン島付近の船中で肝臓病で死去 24歳 |
玄関。正面が表玄関、右が内玄関 |
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右は木戸孝允旧宅の北隣の旧佐伯丹下家屋敷。 佐伯丹下は萩藩大組に属し、幕末期、「直目付(じきめつけ)」=藩士の職務等を監察する役目や、「撫育方(ぶいくがた)仕組掛」=藩の別途会計を管理する役所を改善する役目、「奥番頭役(おくばんがしらやく)」=藩主の側に仕え殿中の諸事一切を統括する役目など藩の要職を歴任。1872年(明治5年)に65歳で亡くなるまで、この家に住んでいた。 |
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伊藤博文、高杉晋作が学んだ円政寺 |
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真言宗御室派 月輪山 円政寺 建長6年(1254)の銘文がある鰐口を所有し、鎌倉時代頃に大内氏の祈願寺として今の山口市に創建。 大内氏滅亡後、慶長9年(1604)毛利輝元が萩へ築城と同時に萩城下 塩屋町(現 多越神社)に移転され、毛利氏の祈願寺となった 神仏分離令後、明治3年円政寺の名が惜しまれ、現在の場所にあった法光院と合併・改称、現在の円政寺になった。 寺なのに、入り口には石鳥居、境内には十二支の彫刻が施された金毘羅社社殿がある。 「金毘羅社」にまつわり次の2つが有名 【其の一】金毘羅社の拝殿には、朱色にぬられた大きく迫力ある「天狗の面」がかけてある。幼き日の高杉晋作は、家人にここへ連れて来られてこの天狗の面を見せられ、物恐れしないようしつけられた。 【其の二】文化12年(1815)12月11日、母の産後の病気平癒を祈願した親孝行な兄弟2人は、金毘羅社がご利益が大きいという話を聞き、百度参りを重ね、風雪に阻まれて亡くなった。 「香川津ニ孝子の美談」は、吉田松陰も聞き及んでいて、藩公の命より頌徳碑(現 萩市椿東)が建てられた。境内にも、ニ孝子の鎮魂本尊像(嘉永元年(1848))などがある また、嘉永4年(1851)頃、法光院住職の恵運は、従姉弟の林 琴子の長男 利助という11歳になる子を預り、約1年半の間、雑用をさせるかたわら読書や習字を教えた。この利助が伊藤博文です。 境内には、幼年期の高杉晋作や伊藤博文らが遊んだといわれる文政3年(1820)に寄進された木馬(神馬)が残っている。 |
江戸屋横丁を振り返る |
同色のジムニーが沢山並んでいるので撮ったら次のとおり由緒ある病院の車だった |
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玉木病院 初代 烏田智庵正通 1639年(寛永16年)7月5日~1698年(元禄11年)12月19日 1663年(寛文3年)長崎におもむき、当時西洋流の外科をもつて名高かつた吉田自休先生の門に入る。 帰萩後は吉田流外科を主として開業、あわせて道三流の内科を兼ね行った。 1690年(元禄3年)第3代藩主毛利吉就により番医となる 2代目烏田智庵貫通も藩医となり第七代藩主毛利重就より屋敷を拝領し、現在も病院の一角に復元されている。 下の地図の好生館址 |
福娘とあるのは岩崎酒造、明治34年創業 |
にぎわい商店街の中。手前の写真の左奥。下の写真の中右 |
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