松下村塾

 


セブンイレブンの看板も条例で茶色。萩小萩町店

COFFEEBOY 1961年に周南市でコーヒー豆の焙煎工場をスタート。県内に8か店ある

唐樋町の民家で

萩カトリック教会

松本大橋

北の河口方向

正面が松陰神社

南から右が松下村塾

西側から

南西から

前の写真の奥の建物

南東から、名前のとおり松に囲まれている。奥が杉家旧宅

松下村塾の間取り

杉家旧宅
杉家旧宅
木造平屋建入母屋造瓦葺214平方メートルの住宅で、8畳3室、6畳3室、4畳、3畳7分、3畳半・3畳および2畳各1室ほか、板の間、物置・土間を有する
杉家は嘉永元年(1848)、松陰らが誕生した、いわゆる「団子岩」の住宅(前号で紹介)から松本村清水口に転居し、さらに嘉永6年3月に松本村新道のこの住宅に転居した。
吉田松陰は、伊豆国下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕えられ、ついで萩に送られて野山獄に入れられる。
安政2年(1855)に釈放され父杉百合之助預けとなる。
松陰は、実家の幽囚室に謹慎して読書と著述に専念。
家族からの薦めもあり、幽囚室で近親者や近隣の子弟たちに孟子や武教全書を講じた。
幽囚室は、旧宅の東側にある3畳半の1室で、もともと4畳半の室だったものに神棚が作られたため狭くなった。
なお、安政4年(1857)12月、文は久坂玄瑞と結婚後、玄瑞が江戸へ遊学するまでの2カ月、この住宅で家族とともに新婚生活を送った。
 

左は渡辺高蔵
   

吉田松陰は処刑の前々日から留魂録の執筆に取り掛かり前日の夕方に完成させた。留魂録は松下村塾門下生に宛てた松陰の遺言。
何としてでも留魂録を弟子たちに届けたい松陰は、幕府に没収されたときのことを考え二部作成した。
牢名主であった沼崎吉五郎留魂録を託した。沼崎吉五郎は元福島藩士で殺人の嫌疑で投獄され5年経過していた。
沼崎は獄卒を使い一部を長州藩邸に届けさせ、もう一部は自分で保管し、その後三宅島へ流され、消息はそこで途絶えた。
長州藩邸に届けられた留魂録は、門下生の飯田正伯(いいだしょうはく)から萩の門下生の元に送られた。
ます。留魂録は門外不出とされ、塾生の間で回覧されたが、幕末の動乱で行方がわからなくなり、 門下生による写本が数点残った。
松陰の死後17年が経過した1876年、かつて松陰の伏見要駕策(ふしみようがさく)を実行しようとして捕縛され、兄とともに岩倉獄に投獄された野村和作は名を野村靖(のむらやすし)と改め神奈川県権令(今の副知事)となっていた。その野村靖のもとを初老の男が訪ね、野村に「私は吉田先生と同じ獄に入っていた沼崎吉五郎という者です」と挨拶をし、懐から薄汚れた冊子を取り出すとそれを野村に渡した。
  沼崎は留魂録の他にも松陰自筆の「諸友に語(つ)ぐる書」も持参し、これも野村に寄贈した。
 その後の沼崎吉五郎の消息は不明。

伊藤博文旧宅入口

伊藤博文は、天保12年(1841)熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)の農家に生まれた。幼名は利助、のち春輔、そして“博文”と改めた。
この旧宅は、木造茅葺き平屋建ての約29坪の小さな家。もとは萩藩の中間 伊藤直右衛門の居宅だったが、安政元年(1854)に伊藤博文の父・林十蔵が伊藤家の養子となったため、一家をあげて伊藤家に入家。その後、博文が明治元年(1868)に兵庫県知事に赴任するまでの本拠となった。 写真中央左の建物は萩焼の店

手前の写真の左にある萩焼の伊藤博文像

来た道を振り返る。左の茅葺きの家は玉木文之進旧宅。
松下村塾の創始者であり、吉田松陰の叔父である玉木文之進は、文化7年(1810)萩藩士杉七兵衛の三男として生まれ、11歳のときに叔父の玉木正路(十右衛門)の跡を継いだ。
天保13年(1842)、自宅に近所の子供たちを集め私塾を開いた。これが松下村塾の起こりで、ここで松陰も学んだ。
松陰が10歳で藩校明倫館の助教授となったときの後見人でもあり、性格は謹厳、剛直
明治9年(1876)の秋、前原一誠の起こした萩の乱を阻止出来ず、養嗣子(乃木大将の実弟)正誼をはじめ門弟が多く参加したことから「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い、自刃した。享年66
 建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関、4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。 

玉木文之進旧宅

手前の写真の右端にも写っていた吉田松陰の誕生地の案内標。生誕地までは300m

南に
國輔窯

東光寺総門。
東光寺開山の慧極禅師は当寺が創建された翌年の元禄五年九月に晋山し、総門はその頃竣工したものと推定される。
総門正面には慧極筆の「護国山」の額が掲げてあり「元禄癸酉六年孟春吉日(1693)」と記されている。
三間二戸八脚門(正面柱間が三間、側面柱間が二間、左柱間に扉、右柱間に板壁、八つの控え柱を持つ)、一重切妻造段違本瓦葺きで、棟の端にはシャチ(鯱)の代わりに摩伽羅を飾り、中央持ち上げの棟式屋根は黄檗風の様式。
材料はクサマキ・マツ等の用材の表面全体にベンガラが塗ってある。
総門右横の石柱を禁牌石と言い、「葷酒山門に入るを許さず」と読む
意味は「葷(にんにくや韮など匂いの強い物)を食べたり、酒に酔った者の入山を禁止する」。戒を厳しく遵守する禅宗の姿勢を表している。

奥の三門が見える

三門
東光寺創建の121年後の文化九年(1812年)九月十九日に竣工。
藩主毛利斉熙が寄進し、規模は地方寺院のものとしては有数で、桁行11.6m、梁間6.7mの三間三戸(柱間が三つ、戸口が三つ)の二階二重門。
入母屋造り本瓦葺き、棟の両端は鯱付き鬼瓦備え、中央は露盤宝珠備えで、ケヤキの素木造り。
左右に山廊があり、ここから上層部への階段が通じ、二階には周囲に通し縁があって、内部には十八羅漢等が安置されている。
全体の構造形式は純粋な唐様で、組物は上層軒内唐様二手先詰組。
 「解脱門」の額は即非禅師、「最勝閣」・「布金祇園」の額は当山十五世大愚衍操禅師による。

東光寺の大雄宝殿(本堂)
大雄宝殿(本堂)は元禄十一年(1698年)十二月に竣工。
一重裳階付き、入母屋造、本瓦葺きで、用材はクサマキ。
組物は三ツ斗出組構えで、前面一間通りは吹放しで、左右と背面の入側は化粧屋根裏、中央は格子天井組など複雑な建築技術を駆使した唐様式の仏殿。
黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼び、「お釈迦様のいらっしゃる所」という意。
堂内は土間叩仕上げで、中国明時代の法要を継承する黄檗宗の読経は現在でも立ったまま行う。
須彌壇上には本尊として、長寿院夫人(開基毛利吉就公夫人)の寄付にかかる釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者の三尊仏を安置。
柱は全て方柱、大雄宝殿前には、行事や法要の時など堂内に入りきれない人々の為に月台という広場が設けられており、その中央の大きな石を梵壇石といい、戒律を破った僧が懺悔のため坐らされたという。
同殿は中国風建築物であるため、障子の桟が日本と逆に外側にある。また、屋根の中央にあげた火焔付き二重宝珠が黄檗風で、正面中央の半扉には桃(中国における魔除けの果物)の画が彫られていて桃戸という。