毛利氏墓所から下関

 


東光寺の大雄宝殿の裏にある毛利家墓所へ

小さな広場を通って奥へ

燈籠が並ぶ更に奥へ

墓所入口

整然と燈籠が並ぶ。奥に鳥居があるのは神仏分離前の名残。
萩の毛利藩墓地は 金沢市の前田藩墓地、対馬の万松院とともに
日本三大墓地と言われる。
を指します。
万松院は、元和元年(1615年)に宗家20代義成(よしなり)が父義智の冥福を祈って創建した寺で、以降、宗家累代の菩提寺となった。
安土桃山式の山門と仁王像は対馬最古の建物で、堂内には朝鮮国王から贈られた三具足、徳川将軍の大位牌が並び、132段の百雁木(ひゃくがんぎ)と言われる石段がある。 
 
萩の毛利藩墓地はお城の近くの天樹院墓所、市街地南東の大照院墓所とこの東光寺墓所の3つからなる。
天樹院墓所には、萩藩の創設者である毛利輝元が眠っている
大照院墓所は中国三十三観音霊場の一つでもあり、毛利家初代秀就をはじめとして2代から12代目までの偶数代の藩主とその家臣らが眠っている。玄武岩製の石柱玉垣22ヶ所、家臣や縁者が奉納した鳥居7基、石燈籠605基、石橋1架がある。
この東光寺墓所には3代から11代まで毛利家奇数代の当主と夫人らのお墓がある。参道には重臣から献上された石燈籠約500基が、整然と立ち並んでいる。

鳥居は砂岩 

墓石の総数は40基で、藩主の墓5基を除いた35基は、藩主室、一族などのもの。

石畳は玄武岩 

墓石は花崗岩製の唐破風笠石付方柱に統一され、藩主夫妻の墓は高さ4.4m。墓石には法号が、笠石には藩主夫妻の場合には澤潟紋が刻まれている、没年などは刻まれていない。
 
  亀趺(きふ) かめの形に刻んだ碑の台石
 

真ん中にある第3代藩主吉就のもの
吉就(寛文8年(1668)~元禄7年(1694年)は、第2代藩主綱広の長男として生まれたが27歳の若さで亡くなっている。
亀趺の碑文について、吉就は生来仁慈朴厚、温良敬謹の人柄で親孝行であるとして「日用の膳、國に定法あり、不幸にして膳中沙粟あれば即ち膳夫罪さる公(吉就)苟も之を見れば密かに自ら棄て去る、其仁慈此に至る」と記されている。
公が重疾になったと聞いた民衆は斎戒沐浴し、神に祈った。
 

亀趺は「防長両州大藩主大江吉就公徳感碑」となっている。
。墓石群に向かって一番左側(写真では一番手前)に第5代藩主毛利吉元の亀趺。
吉元(延宝5年(1677)~享保16年(1731年))は、長府藩主毛利綱元の長男として生れたが、第4代長州藩主毛利吉広が35歳で死去し継嗣がなかったため、宗家の家督を相続した。
吉元は、儒学を幕府の儒官である林信篤に学び、自ら兵書を講じるほどに学問や文化に造詣の深い人物だった。
「治政のみなもとは人づくりにあり」と考え文武を奨励し、享保4年(1719年)には人材育成のための藩校「明倫館」を開校した。
また、史臣の永田正純に命じて毛利氏の家譜や家臣各家の伝来古文書を調査させ「萩藩閥閲録」を編纂させたのを始め、「防長寺社由来」や各村々の実態を詳細に記録した「地下(じげ)上申」など、貴重な史料を編纂させた。
「萩碑文鐘銘集」によれば、吉元の碑は「泰桓賢秀鴻業の碑」と刻まれ長文が書かれ、末尾には「享保龍集壬子の年」と刻まれている。


第7代藩主毛利重就(しげたか)の亀趺。
墓石群に向かって一番右側にある。重就(享保10年(1725)~寛政元年(1789))年は、もともと毛利匡敬(まさたか)という名で長府藩第8代の藩主だった。
本家の長州藩主毛利宗広が早世し後継ぎがおらず、遺命により養子となり宗家を継ぎ、名を重就と改めた
重就が襲封したときには、藩の負債は銀3万貫目(米換算で60万石)に達していた。負債を減らすため、重就はいろいろな策を講じたがなかなか成果が上がらなかった。
そこで、重就は実兄の毛利広定を藩政の中核に据え、藩政改革を始めた。慶長検地以来の本格的な検地を行い、4万余石の増高になった。この増高分を活用し、「撫育(ぶいく)方」を設けた。撫育方は、新田・塩田の開発、良港の築造と整備、室積(むろづみ)会所の設置などの諸事業に取り組んだ。
また、瀬戸内米穀市場の創設や倉庫・金融業を営む越荷(こしに)業務を行い、商品流通で大きな利益を上げるようになった。
このような撫育方の取り組みは100年以上継続され、その間の積立資金は幕末の長州藩の軍費に大きく貢献した。
このため、重就は長州藩の中興の藩主と云われた。
「萩碑文鐘銘集」によれば、重就の碑は「長防国主従四位下行式部大輔兼左近衛権少将大江朝臣英雲公神道碑」と刻まれ長文が書かれ、末尾には「寛政龍集戊の年護国第12世住持沙門翠山栄撰文す」と刻まれている。

墓石群に向かって左側から2番目にある第9代藩主毛利斉房(なりふさ)の亀趺。
斉房(天明2年(1782)~文化6年(1809)は、第8代藩主毛利治親の長男として生まれ、父が亡くなったことにより10歳で家督を継ぐが本人も28歳で亡くなっている。
「萩碑文鐘銘集」の斉房の碑文によれば、「公容儀閑麗、識量明敏にして、政を為すこと清簡に、美に循ふこと流るるが如し、大事を處し、大議を定むるに至りては、即ち剛決撓まず、獨見の明、確乎として抜くべからざるなり」と記されている。
碑には「長防二州大守大官令四品拾遺補闕大江朝臣齊房公成徳碑并に序」と刻まれ、末尾には「文化七年」の文字が見える。

墓石群に向かって右側から2番目にある第11代藩主毛利斉元(なりもと)の亀趺
斉元(寛政6年(1794)~天保7年(1836))は、第7代藩主毛利重就の六男である毛利親著の長男で、第10代藩主毛利斉煕の養嗣子となり、文政7年(1824)に家督を継いだ。
斉元については、津田眞弓慶大教授の調査によれば、斉元は「柳桜亭江戸廼花也(りゅうおうていえどのはななり)」という狂歌の戯号を用いて私家版の浮世絵を作成していた。
狂歌連で新春の挨拶に配るために制作された「狂歌摺物(きょうかすりもの)」と呼ばれるものは斉元による。
また、狂歌を鹿都部真顔に師事し、柳桜亭以外にも「柳花亭風姿瑞垣(りゅうかてふうしのみずがき)」「土筆亭和気有丈(つくしていわけのありたけ)」の号を持ち、戯作者山東京山の娘を側室としていた。
「萩碑文鐘銘集」によれば、斉元の碑には「従四位上行大膳大夫兼左近衛權少将長防國主邦憲大江公神道碑銘」と刻まれれ、末尾には「天保九年」の文字が見える。

斉房(なりふさ)の亀趺の後ろ。

小川家長屋門
小川家は萩藩の大組士(500石)で、藩政末期の当主小川厚狭佐(こがわあさのすけ)は慶応元年(1865)から明治元年(1868)までの3年間萩町奉行を勤めた
同家の表門である長屋門は、木造平屋建入母屋造桟瓦葺、桁行27m、梁間6mのかなり長い建物。
門構えはほぼ中央付近に幅2間の通路があり、正面から1.5m入った所に冠木を架け、入口は袖壁付きの観音開きになっている。内部に14部屋あり、道路側に5ヵ所の出格子窓がある。

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下関

 

「やしま」第七管区海上保安本部の旗艦。本部を北九州市門司区に置き、福岡、佐賀、長崎、大分の各県と山口県西部を管轄し、それらに接続する日本海西部及び東シナ海を担任海域としている。

ヘリコプター2機搭載型巡視船。みずほ型巡視船の2番船にあたり、PLH-22の記号・番号を付されている。



この船は?

亀山八幡宮。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇・仁徳天皇。
平安時代・貞観元年(859)に宇佐八幡宮から勧請された。
「関の氏神さま」「亀山さま」と親しまれるこの地は、古くは島。

平安時代・貞観元年(859)に、京の都の守護のため宇佐神宮(大分県)から石清水八幡宮(京都府)に勧請される途中、この島の麓に停泊した。その夜、「此の山清浄なり、我もっとも愛す。暫らく祭祀し奉り路を進むべし」との神託があり、供の勅使は国主に命じ仮殿を造営させ祀り、再び京に向かったと伝えられる。

「亀山」という名称は、当時島の形が亀に似ていたとも、宇佐の八幡様がお祀りされている山が亀山だからともいわれる。

室町時代に明と貿易が始まると、遣明船は太刀を奉納し航海安全を祈願した。戦国時代、藩主大内義興は永正3年(1506)に朝鮮国国主に当宮修復の寄進を要請し、その財でもって社殿・楼門等が修築された。

ふくの像。
昭和9年、関門ふく交友会の人々が境内表参道東側に「波のりふくの像」を建立。しかし大東亜戦争末期の昭和19年、金属供出により台座のみが残った。
平成元年、有志により、ふく銅像再建推進委員会が結成され、総経費2、000万円をかけて46年ぶりに再建。
除幕式は、平成2年9月29日(フクフクの日)に行われ、以後毎年9月29日にはふく漁解禁にあわせてふく像前にて、シーズン中の航海安全・豊漁・商売繁盛を祈願するふく祭りが関係者一同により執り行われている。

入ったところは荷受所になっている

奥が入口。左は仲卸売場はフグの店が並ぶ。右の食品卸センターは乾物が多かった。

「ふくしか扱っていません」の仲買伊藤繁商店

中奥のおさかなセンターはお寿司を1個ずつ販売
左上から生くじら400円大海老300円のどぐろ800円クエ500円アマダイ400円大トロ400円
左下からひらまさ300円ぶり400円あじ300円フグの白子300円オコゼ400円


上左からマグロの脳天300円、特大ブリ200円、カマトロ500円
中左から1つおいてサーモン300円、特大ホタテ400円、タイ100円、無頭海老100円、赤貝200円
下左から赤エビ200円、赤身100円、中トロ300円、炙り中トロ300円

上左からうなぎ300円、くじらベーコン300円、煮穴子400円、いくら300円、うに300円、地だこ300円、サーモン300円、サーモンあぶり300円
中左から特生イカ300円、生クジラ400円、天然大エビ300円、のどぐろ?、クエ(頭展示)500円、アマダイ(頭展示)400円、本マグロ大トロ(天然生)500円、まぐろ中トロ?、天然まぐろ赤身300円
下左からあじ300円、トラフグ300円、トラフグ白子300円、オコゼ(頭展示)400円、ひらめ(頭展示)300円、ひがんふく(頭展示)300円、石だい(頭展示)300円、

卸し売場

仲卸売り場コーナー

おさかなコーナーを2階から

2階の唐戸食堂で昼食


ふくの唐揚げ定食

第二十一浪速丸総トン数 1,332t 載貨重量トン数 2,385t 積載容量 2,980m3 全長 70.98m 幅 13.3m 深さ 6.65m 主機関 阪神内燃機工業LH38L 3,000ps 竣工 2001.10 1943年設立の浪速タンカー㈱


2001年の竣工、 499総トンタイプの貨物船。   2019年10月に船名が "第八十八永久丸" から "第十二晶恵丸" に変更されました。 OWNER  :  寿汽船 (株)、 愛媛県。 船籍港    :  今治 2001年12月竣工。 天草造船建造。 (#150)     499 G.T. 1,780 D.W. 全長   :   75.50M 型幅   :   12.00M 型深   :     7.20M 満載喫水  :  4.20M エンジン  :  1D/1,000PS. 速力        :  12.0ノット

第18山田丸 総トン数 99t 載貨重量トン数 271t 積載容量 345m3 全長32.31m 幅7.0m 深さ3.16m 主機関ヤンマー㈱6NEY17W 749kw 建造2019/4/25 岡島造船所製 北九州市岡田石油所有

長崎市浜崎海運所有。令和4年9月26日、新船第一崎陽丸が無事、竣工致しました。 福岡造船にて建造された本船は3,859G/t、2,942kw、5,000キロ積み 白油船で、新しい騒音規制にも対応した居住性と最新の設備を搭載して 出港していきました。オペレーターである鶴見サンマリン様の運航のもと、 これから日本中にENEOS様のガソリンや灯油などインフラ物資を運びます。

一?丸 ファンネル(煙突)マークはKだが川崎汽船のものと異なる

海上保安庁の船の甲板に沢山の人が見える。

穴子とウニとトロをベンチで

かんもん 丸

INFINITY SAMBU 2015建造のタンカー


金子みすゞの「みすゞ詩の小径」の案内板。みすゞが身を寄せた旧秋田商会から唐戸市場までの道を2003年8月に市が制定

自家焙煎の店。昭和60年創業。