落語家と行く なにわ探検クルーズ その2
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関電ビルディング タスク・アンビエント空調 タスク(執務者)とアンビエント(部屋)全体との空調を 分けるというシステム。 個人のデスク毎にエアコンの噴出口を設け、自分にあった 温度、風量などを設定できるだけでなく、近くに噴出口が あることによってより涼しく、またはより暖かく感じる。 それにより、アンビエント(部屋)全体の空調の設定温度は 緩くできる。 リブリット ビル頂部に陽が暮れると光り始め、周囲の風の動きに反応し て白い光の列が流れる照明システム。 |
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ダイビル本館(ダイビルほんかん)ダイビル、関西電力、関電不動産の3社によって行われた中之島3丁目共同開発の第三期工事として2010年10月に着工、2013年2月28日に竣工。当ビルを建設するにあたり解体された旧ダイビルは、1926年に渡辺節の設計で建てられたネオ・ロマネスク様式の大規模なビルディング。同じ渡辺の設計である神戸の商船三井ビルディングと並び、大正期の大規模オフィスビルとして最後のものだった。 旧ビルに入居しているテナントが中之島ダイビルへ移転した後、第三期工事として旧ビルを解体して跡地に建設された。低層部には旧ビルの外装に使っているレンガの約8割、石材の装飾品を可能な限り再利用し、近代建築として評価の高い外観やエントランスホールを再現するよう配慮した。低層階には商業施設やカフェテリア、貸会議室が設けられ、上層階はオフィスとなっており、メインテナントとして大林組大阪本店が入居。西側には、関電不動産と共同で中之島四季の丘が整備された。 2015年には中之島四季の丘とともに、日本建設業連合会主催の第56回BCS賞を受賞。また、生きた建築ミュージアム・大阪セレクションに選定された。 鉄骨造地上22階・地下2階。敷地面積 10,097.90m2 |
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左は中之島ダイビル。鉄骨造地上35階、地下2階。中之島3丁目共同開発の第二期工事として2009年3月に完成。将来建設が予定される中之島ダイビル・ウエストに対してこのビルを中之島ダイビル・イーストと仮称していた。ダイビルは1923年(大正 12年)10月 大阪商船・宇治川電気・日本電力の三社共同出資により、株式会社大阪ビルヂング (資本金300万円)を設立 1925年(大正 14年) 9月 大阪市北区中之島にダイビル本館完成「ダイ」は「大阪」の「大」写真真ん中の青い電車の案内板は京阪電車中之島線渡辺橋駅の案内。中之島線は天満橋-なにわ橋-大江橋-渡辺橋-中之島の3KM |
中之島フェスティバルタワー 2010年1月9日着工、2012年11月6日完成。フェスティバルホールは2013年4月3日に開業記念式典を開き、4月10日開業。翌年に第34回大阪都市景観建築賞奨励賞受賞低層階にフェスティバルホール、西地区街区から朝日新聞大阪本社が移転、中高層階はテナントオフィス。低層階から地下にかけてはフェスティバルプラザ(商業施設)が展開される。低層階に大空間のホールが入り、その上に高層のオフィスビルを配置する構成のため、低層階は、16本の外周柱(大臣柱)を、高層部は中央部のセンターコアと外周部のアウトチューブフレームを配した構造となっている |
クラブ関西。終戦直後、GHQの指令で財閥は解体され、同時に各方面の有力者もパージで引退を余儀なくされた。旭化成の堀朋近氏が、若い経営者達が、お互いに十分知り合うクラブを設けることが急務と、当時の住友銀行頭取鈴木剛氏に設立の発起人を要請、事務局長として関西の著名な文化人や経済人と幅広い親交のあった、哲学者・小島威彦氏を招請。 大阪市北区堂島上3丁目に堀朋近氏の邸があり、ここにクラブが入る建物を建設。設計は元日本建築家協会会長の坂倉準三氏に依頼、旭化成の「白雲ビル」として建設を行い、この2階全体をクラブ会館として使用することになった。料理長として、当時、関西で評判の料理人であった、夙川パインクレスト料理長の井上幸作氏を招聘。 昭和23年2月5日、設立総会が開催され、「クラブ関西」が誕生。その後、この白雲ビルには高松宮殿下をはじめ、吉田茂首相など、多数の著名人を迎え、名実共に関西を代表するクラブとなった。現在地は進駐軍の刑務所だったが割譲を受け再び坂倉準三氏の設計で、昭和27年5月に自前の会館が竣工。 |
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日銀大阪支店。 江戸時代の大阪は日本のマネーセンターであったが幕末から明治初期にかけて、蔵屋敷の廃止や藩債の切り捨て(両替商や商人が大名に貸付けていたお金の大部分が返済されずた)などから、大阪経済は一時衰退。その後、多くの近代企業や銀行が設立され、明治10年(1877年)頃までには、工業生産額で東京の約3倍を誇る経済都市となっていた。 日本銀行は本店が設立されると直ちに、大蔵卿(現在の財務大臣)の松方正義に対して大阪支店の設置を願い出た。その結果、旧東区今橋5丁目(現在の大阪倶楽部の場所)に大阪支店が開設された。初代大阪支店長には、外山脩造が就任。 外山は、大阪で経済を一層発展させるためには手形割引の普及が必要であると考え、大阪支店の手形割引レート(いわゆる「公定歩合」)を本店よりも低く設定するなどして、市中の銀行に手形割引を奨励した。こうした施策もあり、大阪支店の手形割引量は急増し、明治17年(1884年)には、日本銀行全体の手形割引枚数の約9割、金額の約6割を占めるほどになった。 奥のクレーンは日土地淀屋橋ビルとオリックス淀屋橋ビル |
日銀大阪支店旧館。開設当初の店舗は敷地が小さく、金庫のための十分なスペースがないなど営業上の不便が多かったため、開設から2年後の明治17年(1884年)に、旧東区大川町(現在の三井住友銀行の場所)に移転。 その後支店の事務量が増え2度目の移転を現在地に明治36年(1903年)に実施。 本店の旧館と同様、明治を代表する建築家である辰野金吾の設計による。 現店舗のある地は、江戸時代には水戸藩や島原藩などの蔵屋敷があった場所であり、明治に入り郵便役所(現在の郵便局)となったあと、大阪商工会議所や大阪証券取引所を設立したことで知られる五代友厚の私邸などを経て、今日に至る。 |
大江橋 大江橋は元禄年間、堂島開発に伴って新しく架けられた堂島五橋(大江橋・渡辺橋・ 田蓑橋・堀江橋(現玉江橋)・船津橋)の1つ。 現在の大江橋は、大阪市第一次都市計画事業時、御堂筋の整備にあわせて架け替えられた。大江橋及び淀屋橋の設計においては橋梁設計の分野では珍しいデザインの一般公募が行われた。 平成20年に淀屋橋とともに国の重要文化財に指定されている。 |
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大阪市役所 4代目の建物で1979年4月着工、1982年1月完成外装は花崗岩張り |
左の橋は水晶橋 水晶橋は、正確に言えば橋ではなかった。この橋は本来は昭和4年に完成した堂島川可動堰という河川浄化を目的として建設されたゲート。橋面の改装の際、多くの人の利用を願い法律上も橋と認定する手続きがとられ、名実ともに橋になっている。 水晶橋という名の由来ははっきりしないが、橋上にある照明灯が水面に映る様子が水晶の輝きに似ているとか、水都大阪が繁昌するようにという意味で水昌橋であるという説もある。 また、本体のアーチとその上の九つの小アーチの組合わせの妙で重厚さの中にどこか軽やかさがあり姿形のゆえに大阪の人々に愛され、プロ、アマを問わず、画題として選ぶ人が多い。 |
![]() 大正時代の水晶橋。奥の建物は大阪高等・地方裁判所で4代目の建物。初代は明治13年、2代目は明治23年(初代赤レンガ)、3代目は明治33年(初代は明治29年に焼失)に完成。3代目も明治42年7月の北の大火災(天満焼け東西3.4km南北500m11,365戸焼失)で焼失 |
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大阪市中央公会堂 HPはこちら これも辰野金吾設計。「義侠の相場師」ともいわれた株式仲買人、岩本栄之助の寄付により建てられた。 岩本栄之助は1877年(明治10年)、大阪市南区(現在の中央区)にあった両替商「岩本商店」の次男として生まれた。小学校を出て大阪市立商業学校を卒業した後は、外国語学校などに通う傍ら家業を手伝い、1904年(明治37年)に日露戦争に出征。 除隊後の1906年(明治39年)3月に家督を継ぎ、大阪株式取引所の仲買人に登録。5月には日露戦争終結に端を発す空前の暴騰となる。 北浜の仲買人の大半は、いずれ暴落することを見越し売方に回っていたが暴騰は止まらず、多くの仲買人は破産寸前の状況に追い込まれた。 彼らは手堅く買方に回っていた栄之助に売方に転じてもらい、株価を下落させようと常識外れの懇願をした。栄之助は「父親の代からお世話になっている皆さんへの恩返しだと思って協力しましょう」と答えた。この結果、翌年1月21日に株価は大暴落。売方である北浜の仲買人は破産を逃れ、莫大な利益を手にし、栄之助自身も大きな利益を得た。 |
「学問せなあかん」が口癖の栄之助は、証券取引所で働く少年たちのために私財を投じて塾を作り、ますます人気が出て「北浜の風雲児」と称えられた。 1909年(明治42年)に渋沢栄一を団長とした「渡米実業団」に参加し、米国の富豪の多くが財産や遺産を慈善事業や公共事業に投じていることに、強い感銘を受け、大阪の地にもどこにも負けないホールを建設しようと決意。 旅の途中、父・栄蔵の訃報を受け取り緊急帰国した栄之助は、父親の遺産の50万円に、自分の手持ち財産を加えた100万円(現在の価値で数十億円)を大阪市に寄付。 当初は公園や学校の整備などのプランが出されたが、母親の「誰にでも使ってもらえるものを」というアドバイスで公会堂に。 1914年(大正3年)に株式仲買の第一線から身を引いたが、翌年には再び株式仲買の世界に身を投じる。が、第一次世界大戦勃発の影響による高騰相場で、莫大な損失を出す。周囲の人々は、大阪市に寄付した100万円を返してもらうように勧めるが、「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」として拒否。 1916年(大正5年)10月、自宅でピストル自殺の道を選ぶ。栄之助が生死をさまよった5日間、彼に恩義のある北浜の仲買人らは、大阪天満宮で夜通しかがり火をたいて無事を祈ったが10月27日栄之助は享年39歳でその人生を終えた。栄之助が夢見た公会堂は、その死から2年後の1918年(大正7年)年11月に完成。 |
写真中のビルは日本生命淀屋橋ビル。日本生命の本店は南西に200mのところにある。その右の建設中のビルは日土地淀屋橋ビル |
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鉾流橋 天神祭の際行われる鉾流しの神事にちなむ橋名がつけられている。橋が架けられたのは大正7年。大正5年に大阪控訴院が新築されており、大正7年には中央公会堂が、同10年に大阪市庁舎が完成するなど周辺の整備が進められる中で、橋の需要が高まった。天神祭の宵宮に神鉾を川に流す行事「鉾流しの神事」は現在も鉾流橋のたもとで行われている。 現在の橋は、昭和4年完成。高欄、照明灯、親柱など日本調にクラシックなデザインが採用された。その後、戦争中の金属供出などによりれらの高欄、照明灯は失われたが、昭和55年に中之島地区にマッチしたクラシックなデザインの高欄や照明灯、レンガ敷きの歩道などが整備された。 |
写真右端が鉾流橋 |
こども本の森 中之島 2017年(平成29年)9月 大阪出身の建築家である安藤忠雄氏より、「本や芸術文化を通じて子どもたちが豊かな創造力を育む施設として活用するため、中之島公園内に「(仮称)こども本の森 中之島」を整備し、大阪市に寄附するとともに、運営費用については、広く賛同者を募り大阪市への寄附を呼びかけていきたい」という提案を受けた。 12月 「子ども等に対し、文学を中心とした良質で多様な芸術文化等に触れる機会を提供する施設として開館すること」を条件に、負担付き寄附の受納について、市会で議決。2020年7月開館 写真の緑は「永遠の青春」がテーマの青リンゴのオブジェ。 上の地図では右端のなにわ橋駅の右上 |
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難波橋(なにわばし) 難波橋が公儀橋となったのは天神橋と同じく、寛文元年(1661)のことといわれている。古くは中之島の先端が難波橋の下流部にあり、橋は一本で架かっていた。 難波橋が鉄橋になったのは明治9年で、橋の架替えに合わせて中之島の先端が上流の方へ延長され、橋は南北に分けられ、この北側部分のみが鉄橋になった。以前の難波橋は現在の堺筋より一つ西側の筋に架かっていたが、市電の第三期線として計画された堺筋線に移された。 橋本体は鋼製2ヒンジアーチで、中之島公園と一体となった都市景観の創造が図られ、非常に装飾的な下部工、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、親柱上のライオン彫刻、さらに公園へ降りる広い石造りの階段など、最大限の意匠設計がなされている。 橋の四隈の親柱の上に阿と吽それぞれ2体の石造のライオン像が配され『ライオン橋』の愛称がある。橋本体の傷みがはげしく、架替えられたが、装飾部分は旧来のものが使われており、また戦争中などに撤収された照明灯の復元、御影石による歩道の改装なども行われている。 |
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難波橋北側 | |
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難波橋南側(中之島側) | |
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ばらぞの橋。橋長:31.5m 幅員:4.0m 平成2年に完成した中之島バラ園内にある橋。 |
バラが少し残っていた。奥のビルは北浜一丁目平和ビル(2014竣工) |
天神橋 文禄3年(1594)に架けられ、当初は橋の名はなく新橋と呼ばれていたが、天満天神社が管理することから天神橋と呼ばれるようになった。明治18年7月の大洪水により淀川筋の橋は次々と流されたが、その直後に鉄橋化されることになり、天神橋には、ドイツからの輸入品で長大スパン66mのボーストリングトラスが用いられた。 現在の天神橋は第1次都市計画事業によって完成したもので、低い軽快なアーチが中之島の剣先の風景によくマッチし、水都大阪の代表的な景観を形造っている。 主要部の形式は3連の軽快な鋼2ヒンジアーチで、両端には重厚なコンクリートのアーチを置き、全体のデザインを引き締めている。昭和62年、剣先側にらせん形のスロープが設けられると同時に美装化がなされ、遣唐使船の陶板ブロックや天満宮所蔵の天神祭絵巻を模写した絵陶板が飾られている。 |
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ナカバヤシ本社 1972年(昭和47年)から2013年(平成25年)まで41年間にわたり『新婚さんいらっしゃい!』のスポンサーを務めていた。 新婚さんいらっしゃいはABCテレビ制作の全国ネット番組としては唯一、朝日放送(ABC・当時)がTBS系列だった時から放送されているレギュラー番組。 2015年7月2日、「同一司会者(6代目桂文枝、当初三枝)によるトーク番組の最長放送」としてギネス世界記録に認定された。文枝は2022年3月27日放送分をもって勇退し出演記録は51年2か月で終了。 |
右は八軒家浜船着場。屋形船も出る。左は京阪電車天満橋駅真ん中の塔は縦にキャッスルホテル。真ん中から左の建物がそれ。 |
慶治郎曰く「窓を下げますので窓か離れてください」 |
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大阪キャッスルホテル。下はレストラン、天満橋駅になっている |
天満橋 天神橋、難波橋と並んで浪華の三大橋と呼ばれ、江戸時代には、ともに公儀橋に指定され、幕府の直轄管理となっていた。 東西の町奉行所が、天満橋の南側にあり(のち西町奉行所は本町橋の東北詰へ移転)、谷町筋から東側には様々な役所があった。 橋の北側には役所の倉庫や町与力の屋敷があり、天満橋はこれらの役人の通勤経路や役所間の連絡にも利用された。 天満橋、天神橋は、明治18年7月初めの大洪水によって両橋とも流失し、鉄橋に架け替えられた。主要部材は天神橋と同じく、全てドイツ製であったが、鉄製の高欄、照明柱、橋名額は両橋とも国産品が用いられた。現在の天満橋は、昭和10年に重厚なゲルバー式鋼桁橋に架け替えられた。戦後、自動車交通の発達により天満橋は、交通上のボトルネックになり、昭和45年に高架橋が建設された |
アクアライナー なにわ5号京阪水上バス所有。大阪の川を35年以上ほぼ毎日運航するキング オブ 大阪シップ。2号、3号、5号の3隻がある。低い橋もくぐれるように、天井が30cm下がる仕組みも搭載。 |
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ひまわり 明治時代に淀川を往来した川蒸気船をモチーフにした船。特徴は船体についた外輪と船上デッキ。船内には小さな厨房もあり、温かい食事を提供。優雅な気分を味わえるクイーン オブ 大阪シップ。 |
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右は京阪本線天満橋駅。その奥はテレビ大阪。 |
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茶色いビルはテレビ大阪。中右のガラスが光るビルは大阪府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)。その左は大手前センタービルディング、これもテレビ大阪のビルになっている。 |
上が白い高いビルは日本経済新聞社と大和ハウス工業が日経旧大阪本社跡地(大阪市中央区)に建設していた複合ビル。今年(2024年)1月22日竣工。 日経グループのテレビ大阪、米ヒルトンが運営するホテル「ダブルツリーbyヒルトン大阪城」が5月1日に開業した。 地上21階、地下1階建てで延べ床面積は約3万8766平方メートル日経が所有する1〜4階にはテレビ大阪、大和ハウスが所有する6〜20階にホテルが入居する。ホテルの客室数は373室でレストランやフィットネス、プールなども備える。 |
慶治郎「ハイ、大阪城がチラリと見えますよー」 |
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雅遊。KPG(Kato Pleasure Group)所有定員28名。 他に屋形船は大阪最大の定員52名の陽雅、水雅、雅流がある。 |
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大阪造幣局。手前は通り抜けで有名な桜並木 ここでUターン |