落語家と行く なにわ探検クルーズ その3

 


再び大阪城、この時は船を止めてくれた。
右は川崎橋
江戸時代、大阪城京橋口から幕府の役人宅や諸藩の蔵屋敷があった対岸の川崎(北区天満一丁目の一部)へは「川崎渡」が通っていた。
明治10年に私設の橋が架けられたが一人三厘を徴収し、「ぜにとり橋」
と呼ばれた。
この橋も明治18年7月初めの大洪水で下流の橋ともども流失。
現在の川崎橋は、中之島公園と千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として昭和53年に架設された。
形式は高い塔から多くのケーブルを出し、桁を吊った斜張橋というタイプで、景観を重要視した橋として、土木学会の賞を受けている。

天満橋を通る。北方向に撮影
   

天満橋の2階部分から見るとこんな感じ

中之島公園 剣先噴水。10時~20時30分までの毎時0分と30分に約5分間、水を噴き出した。


同じく南側をみるとこんな感じ。左は大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMMビル地下4階 地上22階 1969年竣工) 右は京阪天満橋駅・大阪キャッスルホテル

こんな感じ

左の橋は天神橋。中奥のビルはジーニス大阪WEST棟。日商岩井が2003年1月に建築した39階360戸のマンション

天神橋を再びくぐる

ばらぞの橋
中左は大阪JAビル。地上15階、地下2階建ての大型賃貸オフィスビル。1983年竣工。左端はJIN・ORIXビル地上13階地下1階1992年6月築。

青が往路、赤が復路。

なにわ橋南側のライオン。こっちは阿吽の吽(口を閉じている方)。この奥に大阪証券取引所がある


大阪市中央公会堂が再び見えてきた。真ん中奥のビルはあいおいニッセイ同和損保フェニックスタワー。現所有者の前身のひとつである同和火災海上保険が1994年での創立50周年記念事業として、旧本社屋の同和ビルヂングを取り壊した跡地に新本社屋を建設することになり、1991年9月起工、1995年1月竣工。
当初は同和火災フェニックスタワーと称されたが、合併により現名称に改められた。
当初は同和火災海上保険の本社が設けられ、同社が合併によりニッセイ同和損害保険として発足した後も本社所在地とされたが、同社がさらに合併して発足したあいおいニッセイ同和損害保険では本社を東京に置いたので、現在は同社の大阪支店などが入居。地上29階地下3階。高さ145.45m
中左は2024年4月に竣工したばかりの大阪堂島浜タワー。地上32階 / 地下2階  地上32階・高さ143m、三菱地所。
その左は新ダイビル。2015年3月竣工地上31階地下2階

大阪堂島浜タワーの18-31階はカンデオホテルは入っており、ホテルのマークの星が壁面にある。31階(写真の窪んだところ)にギネスに登録された建造物内の最も高層階にある露天風呂がある。

ここらへんで慶治郎から公会堂を寄付した岩本栄之助の話があった

大阪市役所

淀屋橋

日銀大阪支店

中之島フィスティバルタワーウエスト。CONRAD、香雲美術館の文字が見える。(中之島)香雪美術館は、朝日新聞社の創業者である村山龍平(1850~1933年)が収集した日本と東アジアの古い時代の美術品を所蔵。開館45周年を記念し、神戸市東灘区御影の本館に次ぐ2館目の美術館として2018年3月21日にオープン。ちなみに村山龍平は三重県玉城町生まれ。

33-40階がコンラッド。39階はコンラッドスイート(220㎡)、ヒルトン・オナーズ会員にならないと予約できない。1泊77万円から

大阪市立科学館 2023/11/6-2024/7/31の間改装で休館。
右は国立国際美術館のオブジェ。国立国際美術館は、1977年、国内外の現代美術を中心とした作品を収集・保管・展示し、関連する調査研究及び事業を行うことを目的として開館。
建物は、1970年の日本万国博覧会開催に際して建設された万国博美術館を活用、2004年3月に当地に移転。
完全地下型の美術館として、竹の生命力と現代美術の発展・成長をイメージした外観デザインを有し、人と美術との交流を生み出すパブリック・ゾーンを設けている。設計は、シーザー・ペリ アンド アソシエーツジャパン。
 
国立国際美術館のコレクションはジョアン・ミロの陶板壁画《無垢の笑い》(1970年)などわずか14点から出発。
1971、現代美術コレクターとして知られた化学者・実業家の大橋嘉一氏のコレクションの一部である828点が遺族から寄贈された。
その後、約400点を数える浜口陽三の版画と素描、900点を越える横尾忠則のポスター作品などを加え、収蔵作品の充実を図ってきた。

筑前橋 
江戸時代の初期からあったが、今の橋より一筋上流に架けられていた。
筑前殿橋とも呼ばれ、中之島にあった筑前・黒田藩の蔵屋敷への便を図って架けられた。当時は一般の通行は許されず、他藩の大名もこの橋を渡ることを遠慮した。
明治になり蔵屋敷がなくなってからは、田蓑橋と同じ通りに架けられるようになった。幅2間の木橋で、明治18年の大洪水で流され、復旧されたが、3径間の木橋であった。
現在の橋は第1次都市計画事業で架けられたもので、3径間の鋼鈑桁橋で、同じ通りの田蓑橋とは違ったデザインになっている。

黒い建物は大阪中之島美術館
奥の右の建物は大阪中之島合同庁舎で検察庁がある。
奥の中左の建物はザ・タワー大阪、地上49階地下1階177.7m。2008年4月竣工。
4-7階は賃貸マンション。8-49階は分譲マンション。
賃貸はワンルームで14万円。中古は38階2LDKで18800万円。

国立国際美術館は大阪大学付属病院の跡地に建てられた。附属病院は千里に移転した。

橋の様に見えるが常安橋北詰の西あたり。広い空間は2010年3月に閉校した大阪市立扇町高等学校の跡地。

左は住友病院。橋は越中橋。
下中之島の橋では最も古く、橋の北詰に肥後・細川越中守の蔵屋敷があったことからこの名前が付けられた。南詰めには播磨藩の蔵屋敷があった。
明暦期(1655~1658)の地図にもすでに画かれ、『地方役手鑑』や『米商旧記』に橋長三四間二寸(67.0m)、幅員二間九寸(4.2m)とある
明治18年の大洪水では大きな被害を受けた。土佐堀川の橋は難波橋から湊橋までことごとく破壊され、木津川方面へ流れた。
第1次及び第2次の都市計画事業においては新設、永久橋化が行われ、越中橋も昭和4年に近代化された。
橋梁形式は三径間ゲルバー式鋼鈑桁橋で、20.5m、29.0m、20.5mのスパン割を持ち、幅員は7.5m。
戦後から進行していた西大阪一帯の地盤沈下は戦後になってさらに進み、橋梁の嵩上げ工事も行われ、嵩上げ高が3.5mにもなるため、橋を歩行者専用とし、階段で取り付けるように変更された。工事は39年に完成し、幅員も3.8mに縮められた。

越中橋全景

昭和初期の越中橋。
さらり このクルーズ船ほたる号の姉妹船。66名 全長20.8 全幅4.3m 66人乗り
左の建物がこのクルーズ船を運営する一本松海運の本社。大正4年3月創業、従業員25名。

端建蔵橋(はたてくらばし)
江戸時代の中之島には各藩の蔵屋敷が建ち並んでいた。中之島の西端にも蔵が建てられており、端建蔵という地名が生まれた。
橋が架けられたのは明治になってからで、明治18年の大洪水によって中之島周辺の橋は大きな被害を受けたが、この橋は橋脚が鉄柱で作られておりかろうじて残った。
明治42年に市電の九条中之島線の開通時に架け替えられ、鋼桁橋になった。その後、大正10年に架け替えられた。
昭和38年に、橋面を約2m持ち上げ、橋体を軽くするためコンクリートの床版を鋼床版に換えられ、同時に耐震性を増すために補助の橋台が造られた。