プラド美術館からソフィア王妃芸術センターへ マヨール広場近くで夕食

 

 


ハムの博物館(Museo del Jamón)タパス専門店 HPはこちら

博物館のイケメン3代目社長(HPから)

奥の建物は農水食品省(Ministerio de Agricultura, Pesca y Alimentación) 建物は1897年に理学部と中央工芸商学部のために作られた。

中左はアト―チャ駅 広場はエンペラドール・カルロス5世広場

ソフィア王妃芸術センター(Fundación Amigos Museo Reina Sofía)
ピカソのゲルニカ
建物はマドリッドの最初の総合病院跡にある。フェリペ2世は、宮廷に点在するすべての病院を集中させた。
18世紀、国王フェルディナンド6世は、当時の施設が都市に不十分なため、新しい病院の建設を決定。この建物は、建築家ホセ・デ・エルモシージャと彼の後継者であるフランシスコ・サバティーニによって設計された。
1805年、幾度となく工事が中断された後、サバティーニが提案したプロジェクトの3分の1しか達成しないまま完成。それ以来、1969年に病院として閉鎖されるまで、さまざまな変更と追加が行われた。

1980年から博物館のために大規模な近代的な改修と増築が行われた。
1988年、新しい博物館の一部が一般公開。同年、文化省によって国立博物館に指定された。

1989年にイアン・リッチーによって根本的な設計変更が行われ、3つのガラス張りの塔が追加された。
8,000 m2 の拡張工事は、9,200万ユーロをかけてフランスの建築家ジャン・ヌーヴェルが設計し、2005年10月に完成。
この増築には、特別展用のスペース、500席の講堂、200席の講堂、書店、レストラン、管理事務所が含まれる。


Nasreen Mohamedi. La espera forma parte de una vida intensa
ナスリーン・モハメディ(1937-1990)は、線画で知られるインドを代表する現代アーティストの一人。生前、母国以外では比較的知られていなかったにもかかわらず、モハメディの作品は国際的な批評家の間で目覚ましい復活を遂げ、過去10年間で大衆の称賛を受けた。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)、ニューデリーのキラン・ナダール美術館、ドイツのカッセルのドクメンタ、2003年にインド国外で初の個展を開催したタルワール・ギャラリーなどで作品が展示された。
展示の題名を直訳すると「それを待つことは激しい人生の一部です」
 プラド美術館は中世美術の展示、ソフィア王妃芸術センターは近現代美術の展示、と役割分担している。
2つを見学することで、スペインを中心とした西洋美術を中世から現代まで通して見ることができる。

ソフィアはピカソのゲルニカで知られる。

1937年4月26日、スペインのバスク地方にあるゲルニカが空爆を受けた。当時のスペインは内戦中で、共和国政府に反旗を翻したフランコ将軍を支援するナチス・ドイツが一般市民を狙った都市無差別爆撃撃を行った。
その頃、パリで活躍していたピカソは、スペイン共和国政府からパリで開かれる万国博覧会のスペイン共和国パビリオンに飾る作品の依頼を受けていた。ゲルニカへの空爆を知ったピカソは大きなショックを受け、絵筆を取った。
爆撃からわずか77日後の7月12日、約3.50メートル×約7.8メートルの大作であるゲルニカをスペイン共和国パビリオンで公開した
1939年にスペイン共和国は崩壊。戦争終了後も、フランコは長らくスペインを独裁下においた。 ピカソはMoMAでゲルニカを保管することを決意し、スペインの人民に自由が戻るその日まではゲルニカをスペインにわたさないよう約束を交わした。
1973年にピカソは死去するが、約束通りゲルニカはMoMAに“亡命”し続けた。 その後1975年にフランコが死去しスペインの民主化が急速に進んだ。
1981年9月10日、44年の月日を経てMoMAからプラド美術館に返還された。そののちこのソフィアのオープンに伴い移された。

パブロ・ピカソ『ゲルニカ』:Room 206.06


パブロ・ピカソ『青衣の女』:Room 201

サルバドール・ダリ『大自慰者』:Room 205

 
ジョアン・ミロ『パストラル』:Room 202

2階の通路

アレクサンダー・カルダー『カルメン』(1974)

通訳エリア area de interpretación



     

フアン・ゴイティソーロ広場 フアン・ゴイティソーロ・ゲイ(Juan Goytisolo Gay, 1931年1月6日 - 2017年6月4日)は、スペイン・バルセロナ出身の小説家。フランコ体制下の1956年にフランスのパリへ亡命し、1997年からはモロッコのマラケシュに居住。代表作として『天国の悲しみ』、『禁猟区』、『サラエヴォ・ノート』などがある。

El pueblo español tiene un camino 「スペインの町には星に続く道がある」は、アルベルト サンチェス ペレスによる彫刻の複製。1937 年完成 、高さ 18.7 メートル、重さ 7 トン。
奥の建物は マドリード音楽院(Real Conservatorio Superior de Música de Madrid) 1830年設立。


アト―チャ駅。これは1892年に出来た2代目駅舎。中を1992年に改装している。
 
1992年に出来た新駅舎は外観を保存しつつ、内部は乗客サービス・商業施設・カフェテラス・待合室等に利用され新駅舎の一部に組み込まれている。待合室・カフェテラスとして利用されているかつてのプラットホーム部分は、鉄とガラスを用いた天井の高い空間を、旧駅舎と同時期にヨーロッパ各地に建てられた「植物園」に見立てた演出がなされている。

予約の売り場。番号札を取って待つ。

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合っていればAcepterを押す

上から切符の数。ユーロの金額。投入額。案内額

赤いのはカメラのケース

プエルタ・デル・ソル

プエルタ・デル・ソルから西へのマヨール通り

ここにもMuseo del Jamónがあった。HP作成時(2024/3)はマクドナルドの西50mのところに移転している

マヨール広場。プエルタ・デル・ソルから西に350m。
白い建物はCasa de la Panadería (パンの家)
1590年に建てられ地上階と地下が街のパン屋だった。
1617年に広場を現在のような形に整備する以前からあった建物で、この建物に合わせてまわりの建物の設計なども行われた。
2階以上は王家の人達が使用し、休憩したり、招待客を招いたり、広場で行われたさまざまな行事に列席、観覧した。
1672年の火事の時、建物はかなり焼け痛み、建て直しをした。
中央の旗の上には、ハプスブルグ家最後の国王カルロス2世の紋章が刻まれている。
時代によって現在アルカラ通りにある王立サン・フェルナンド美術アカデミーや、スペイン歴史アカデミーが建物を使用したり、 現在は、地上階がツーリストインフォメーションの事務所になっている。
壁の装飾は、17世紀から現在に至るまで何度も塗り替えられているフレスコ画で、最後の修復は1992年カルロス・フランコスによって描かれた神話の登場人物たち。

広場は129m×94mの長方形の形をしており、広場に面して237箇所のバルコニーを持つ3階建ての建築物に取り囲まれている。
外灯の下は円形のベンチになっていて この広場で行われていた行事や、かつてこの広場で起きた出来事が刻まれている。

フェリペ3世像
父王フェリペ2世、祖父王カルロス1世。
マヨール広場の整備が完成した時代の王様で伊達藩から送られた、支倉常長率いる慶長遣欧使節団が会ったのはこの王様。
この騎馬像は、イタリアのフィレンツで1616年にスペイン国王への贈りものとして制作された。
銅製で重さ5.5トン。 初めは王家の狩場であったカサ・デ・カンポに設置された。 マヨール広場で行われていた闘牛や、異端審問などがなくなったあと広場の装飾として、1848年イサベル2世女王の時代に現在の場所に移動した。
 
右の円形の入口はクチジェロスの凱旋門(Arco de Cuchilleros 17世紀)。

マヨール広場への入口で最も人気のある場所の1つ。
広場とカバ・デ・サン・ミゲル、多くの居酒屋やレストランが並ぶ通りをつなぐ大きな入り口。
アーチは、通りとマヨール広場の高低差を克服するという考えで建てられた。


クチジェロスの凱旋門から50mのところにあるEl Mesón del Boquerón(メゾン・デル・ボケロン)で夕食 HPはこちら

これは向いの店。HP作成時にはもう無かった。

かたくちいわしの酢漬け



al rincón del boquerón ようこそボケロンへ
gran surtido de tapas y raciones豊富な種類のタパスとポーション
 especialidad en frituras de pescados a la andaluza アンダルシア名物フライドフィッシュ
カタクチイワシのフライ

日本語メニューあり。

パドロン産ししとう


HP作成時(2024/3)のメニュー。表紙は同じ

あさりの漁師風

お皿に店名が

プラド美術館、ソフィア王妃芸術センター、マヨール広場の位置関係はこんな感じ